改革の必要性を訴えず人事だけで統治すべきでない

官邸サイトより

菅義偉首相が、科学者をメンバーとする政府機関である「日本学術会議」が推薦した新会員候補のうち、6人の任命を見送った問題が、検事総長問題の再現となりかねない状況にあって、秋の臨時国会の焦点だという人もいる。

学問の自由を否定する暴挙だとか、政府は説明責任を果たすべきだとか、年間10億円もの税金を使っている同会議は廃止すべきだととか様々な意見がある。

しかし、日本のアカデミズムは、反日左翼の論理(社会主義が世界普遍的に平和主義とはいえまい)に基づいて、国公立を含む日本の大学は、防衛のための研究に協力することを拒否し、自衛隊員の大学や大学院への入学まで排除・制限するという暴挙を平気で行っている。これは明らかに学問の自由の侵害である。

一方で、外国の軍事研究への協力になることには最低限の警戒もしていない。自民党の甘利明税制調査会長は8月6日のブログで、中国が世界から技術を盗み出そうとしていると、米国で大スキャンダルになっている「千人計画」に、日本学術会議が積極的に協力していると批判している。

アメリカではノーベル賞クラスの教授までも届け出せずに中国から多額の報酬をもらっていたとしてどんどん逮捕されている。北朝鮮の核開発にも、京都大学など日本の大学の研究者が貢献したと疑われているくらいだ。

自然科学でないが、孔子学院など欧米ではスパイ機関とみられて追放されつつあるわけで、日本の大学が対策を講じないで放置していると、その大学や設立運営にかかわる関係者もアメリカなどから制裁が及びかねない。

文科省をはじめとする政府機関は、この状況を放置してきたが、米国と中国の対立が激化するなか、日本の企業、大学、研究機関、さらには研究者個人に至るまで、無神経でいると世界の研究網から排除されたり、留学や学会のためのビザも拒絶されかねないのである。

日本学術会議(Wikipedia)

さて、日本学術会議は「軍事目的のための科学研究を行わない」という声明を1950年と67年、2017年に出した。これが、大学などでの不適切な方針を後押ししてきた。

これらの活動は、学術会議の本来の目的から逸脱している。時代にも合わないし、組織運営も時代に合わなくなっており、制度の全面見直しをすぐ行うべきところだ。

そもそも、学問のあり方も枠組みも刻々変化しているのに、それを反映することなく、事実上、後任者を指名できるようなあり方はありえないだろう。

こうしたなか、2016年に定年となった委員の補充にあたって一部の候補を拒絶し、2017年には定数より多い数の候補の推薦を求め、また、事前の相談も要求して、政府の意向が反映された運営に既になっていた。

ところが、学術会議側は挑戦的な態度で、予定人数と同じ数の候補者をすりあわせもせずに提出してきたので起きたのが今回の問題である。

政府が学術会議の自浄作用を期待するために、内閣法制局の意見も踏まえて、新会員候補の一部の任命を見送ったのは、何ら問題とされることではない。もし、政府が一部の候補者を排除できないとすると、法律上定められた刑事事件などでの排除理由でもなければ、過去の犯罪者や破廉恥事件の主でも政府は断れないはずだが、そういうわけでもあるまい。

ただ、東京高検検事長の定年延長問題でも「司法改革の必要性」を国民に訴えずに、人事でだけ控えめに政府の意見を反映して、「司法介入だ」という見当外れの批判を受けた。交代の時期にある人事を通じてだけ意見を反映できるようにするのは穏健な方法としていいこともある。しかし、分かりにくいし、反対派のためにする議論の土俵に乗せられてしまうことが多い。

今回も「学術会議の問題点」を国民に訴えずに、先例と違う人事のやりかたをしたので(実は学術会議が前回の前例を破ったのがいまは明らかになっているが)、守旧派の付け入る隙を与えている。

元文科事務次官の前川喜平氏は、前任者の意見を聞く必要などなく政府の専権事項である審議会委員の任命について、官房長官時代の菅首相に事務方の案を覆されたと批判している。

仲間内で後任者を決めることができるのでは、時代に合う改革はできなくなるし、「国民の意思を政策に反映する」という民主主義の根幹も維持できなくなるわけで、それぞれの分野ごとのマフィアに民主的統制なく日本をしはいさせる考え方だ。

官房長官の立場では、人事をテコに意見を反映させるのも合理性があるが、いまや首相なのだから、国民に考え方を示し訴える方がいいのではないか。今回の件もまず、学術会議の現況を先に批判してから同じことをすれば、国民のほとんどは支持した案件なのだ。

※夕刊フジ掲載記事に大幅加筆