駐伊北朝鮮大使代理の「韓国亡命」の波紋

2020年10月11日 06:00

駐イタリアの北朝鮮大使代理を務めていたチョ・ソンギル氏が昨年7月、韓国に亡命していたことが明らかになった。韓国国会情報委員会の委員長を務める全海澈議員(与党「共に民主党」所属)が7日、明らかにした。

▲在イタリアのチョ・ソンギル北朝鮮大使代理(イタリア日刊紙「イルフォグリオ」記者のツイッターから、韓国中央日報日本語版から転載)

同大使代理が行方不明となった時、韓国亡命説があったが、南北間の融和政策にまい進する韓国の文在寅大統領が受け入れを渋ったという情報が流れていた。そのため、イタリア側が同大使代理夫妻を国内で保護している、と受け取られてきた。

チョ大使代理は2015年5月にイタリアに赴任した。17年9月、北朝鮮が6回目の核実験をしたことを受け、イタリア政府は当時のムン・ジョンナム大使追放という制裁に乗り出したため、当時3等書記官だったチョ氏が1等書記官に昇進し、大使代理を務めてきた経緯がある。

そのチョ氏は18年11月、任期満了直前に亡命を決意したわけだ。「昨年7月韓国亡命説」が事実とすれば、チョ大使代理夫妻は約8カ月余りイタリア国内で潜伏し、第3国経由で韓国に亡命するチャンスを伺っていたことになる。

イタリア政府から昨年2月、同国に残っていたチョ氏の娘が北朝鮮に送還されたことを聞き、チョ大使代理は「イタリア当局は娘の北送還を防ぐことができなかった」ことにショックを受け、「イタリア国内で潜伏するのも危ない」と判断し、韓国への亡命計画を急いだのではないか。

なお、韓国聯合ニュースは7日、「北朝鮮の最高位級の要人が韓国に亡命したのは、1997年の黄長燁元労働党書記以降、約20年ぶりとなる」と報じている。

駐英北大使館公使時代の2016年、韓国に亡命した太永浩議員が明らかにしたところによると、「チョ氏は北朝鮮外務省では順調に出世コースを歩むエリート外交官として知られ、父と義父がいずれも大使を歴任した外交官家系の出身だ」という。チョ氏は名門の出というわけだ。

ところで、全海澈議員は「チョ氏は昨年7月、自ら韓国にきた」というが、この発言はちょっと信頼できない。チョ氏が行方不明となった時点で韓国側はイタリア当局と連携を取りながらチョ氏の言動を完全に監視していたからだ。

北外交官が韓国亡命の意思を表明した段階で韓国情報機関の工作員が24時間、監視し、必要ならば保護するのが通常だ。「チョ氏が自ら韓国に来た」ということは通常では考えられない。真相は、チョ氏夫妻は韓国情報機関のエスコートを受けて韓国入りしたと受け取るほうが現実的だ(「朝鮮半島の『点と線』」2019年1月29日参考)。

全海澈議員は、「チョ氏は北にいる親族の安全を考え、韓国に亡命した事実を公表しないようにと要請した」ため、チョ氏の韓国亡命が1年間余り公表されなかったという。厳密にいえば、北側の怒りを気にする文政権がチョ氏の韓国亡命を可能な限り公表したくなかっただけではなかったか。チョ氏の韓国亡命は昨年7月ではなく、その数カ月前だった、という可能性は排除できない。

金正恩朝鮮労働党委員長は欧州駐在の北外交官の動きを懸念してきた。例えば、太永浩元駐英北朝鮮公使が2016年にロンドンから家族と共に韓国に亡命し、そして18年11月、チョ・ソンギル大使代理が行方不明となったのだ。一方、スペインのマドリードの北朝鮮大使館に昨年2月22日、何者かが侵入し、暗号化された電文解読に使用するパソコンを盗んだ可能性があるなど、海外の反北グループの動きが活発化してきた。

昨年11月末から12月にかけ、これまで海外に島流しにされてきた2人の金ファミリーが平壌に戻ってきたことも決して偶然ではないだろう。1人は金平一前駐チェコ大使だ。故金日成主席と金聖愛夫人の間の長男だ。もう1人は金平一氏の実妹、金敬淑さんの夫、前駐オーストリア大使の金光燮氏だ。両大使の帰国と欧州の北外交官の脱北の多発とは密接な関連があるとみてほぼ間違いないだろう。

北朝鮮はハノイの第2回米朝首脳会談(2019年2月27、28日)後、調停役としての文大統領への評価を落とした。そのような時、駐イタリアのチョ大使代理が韓国に亡命したと分かれば、南北間の関係は修復不能になる。だから、文政権はチョ大使代理の韓国入りが北に伝わることを恐れてきたはずだ

チョ大使代理の韓国亡命後、北側は文大統領への批判を強めている。北朝鮮の対韓国窓口機関・祖国平和統一委員会は昨年8月16日、前日の文在寅大統領の光復節の式典での演説を非難し、「われわれは南朝鮮(韓国)当局者とこれ以上話すことはない」と一括し、文大統領に対しては、「まれに見る図々しい人物」などと非難している。北の批判は当時、米韓合同軍事演習への批判と受け取られたが、実際はチョ大使代理の韓国亡命を阻止しなかった文政権への怒りだった可能性が出てくるわけだ。

金正恩氏の実妹・金与正党第1副部長は今年6月4日、脱北者の北朝鮮非難ビラについて言及し、ビラを配った脱北者を「人間のゴミ」、「犬の糞」といった表現で罵倒した。それだけではない。南北共同連絡事務所を爆発した。そして南北融和路線を推進してきた韓国の文在寅政権に対しても「無能力な政府」といった罵声を浴びせている。

金与正氏の韓国批判の発端は脱北者の団体「自由北韓運動連合」が5月末に北を批判する中傷ビラ約50万枚を風船で北側に散布したことと関連すると受け取られたが、その背後にチョ大使代理の韓国亡命を阻止しなかった文大統領への怒りがあったはずだ。

ちなみに、南北首脳間にはホットラインがある。チョ大使代理が行方不明になった直後、金正恩氏は文大統領に電話を入れ、チョ氏が韓国入りしたら即引き渡してほしいと要求したはずだ。人権弁護士といわれてきた文大統領はどう返事していいか苦悩しただろう(「朝鮮半島の『点と線』」2019年1月29日参考)。

ちょっと金与正氏の心の世界を訊ねてみたい。金与正氏の韓国批判は「脱北団体」の反北ビラ散布が契機となったといわれているが、脱北団体の北批判のビラ散布は定期的に行われてきたことで新しくはない。だから、それが6月の金与正氏の文大統領批判談話の契機となったと考えるのは少々無理がある。

ビラ散布が問題ではなく、「脱北団体」とチョ大使代理の「韓国亡命」が金与正氏の頭の中で結びつき、自制心を失わさせ、感情爆発となったのではないか。そのキーワードは「脱北」(団体)であり、(韓国)「亡命」だったはずだ。「脱北」も「亡命」も金与正氏の世界ではタブーだから、それらの言葉が出てくると感情の抑制メカニズムが機能を失い、強い反発心が湧いてくるのだ。

なお、韓国聯合ニュースは8日、「北朝鮮の対外宣伝メディアによる韓国非難は2019年に981件と、前年(152件)の6.5倍に急増したことが分かった。今年も600件に上るが、7月以降は大きく減った」と報じた。韓国国会外交統一委員会の所属議員が統一部の資料を基に伝えた。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年10月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

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