六法全書より「良心」は知っている

法と道徳の違いについて考えている。両者とも社会規範だが、道徳が要求する全ての内容を人に求めたならば、多くの人は生き苦しくてなって生きていけなくなるから、法は道徳よりも薄い内容を明記し、それを社会の基準として国家を治めていく。法が外的言動を規制する他律規範的である一方、道徳は内心を規律する自律規範的というわけだ。

法論議などは当方の分野でもないし、その能力もない。ここで考えたいことは、人は六法全書を本棚から引き寄せなくても、そこで明記されている内容以上のものが刻印された「良心」を一人一人が生来、保有しているのではないか、という点だ。

米国社会は弁護士社会で全て法的争いを通じて決着するが、私たちは誰から強要されなくても、殺人は許されないこと、暴行は蛮行であり、嘘は良くないことを知っている。いちいち、事が起きるたびに「六法全書の民事法によれば……」と引用しなくてもいい。それをあたかも「初めて聞いたように振舞い、相手側を告訴して、裁判で争っている」のが現実ではないか。

もちろん、人は容貌、性格、出自が違うが、「良心」は基本的に共通しているのではないか。悪事を繰返していくと、「良心が曇る」というが、「良心」があるということを前提とした表現だ。曇ったというのならば、その曇りを払う努力をすればいいだけではないか。

宗教とか倫理はそのためにある。宗教の教えが「良心」を生み出すのではなく、覚醒させるだけだ。その意味で宗教はトレーニングセンターのようなものだ。真理の独占などといったドグマを考え出すのはその宗教団体の自己防御に過ぎない。「良心」は本来、ドグマ以上に事の是非をわきまえるパワーを有しているのではないか。

律法学者やパリサイ人がなぜイエスとの論争で何時も敗北するのだろうか。前者は現代の六法全書派だ。法律の文面を暗記し、必要に応じてそれを引き出すことに長けた人々だ。一方、イエスは法律の学校に通ったわけではない。通常の場合、前者が裁判では圧倒的に有利だろう。

しかし、イエスは常に、律法学者を論破した。それではイエスの武器は何だったのだろうか。イエスの「良心」だったのではないか。相手の「良心」にどこに問題があるかを諭すことが出来たからではないか。

安息日に人を癒すイエスを見て、「律法によれば、安息日には働いてはならない」と考えてきたパリサイ人はイエスを批判し出した時、イエスは「人の子は安息日の主だ」(「マタイによる福音書」第12章)と指摘し、パリサイ人を論破した。ここで重要な点は、律法に精通したパリサイ人や律法学者はイエスが正しいことをその「良心」で分かったので、イエスの前から退いたことだ。

▲テロ現場を視察したマクロン大統領(2020年10月16日、フランス大統領府(エリゼ宮殿)公式サイトから)

前口上はここまでにして、21世紀の問題に戻る。フランスのマクロン大統領はパリの風刺週刊誌「シャルリー・エブド」がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載した問題で「言論の自由」に言及しながら、「我々には冒涜する権利がある」と豪語した。

その是非は法論争ではひょっとしたら正当化できるかもしれないが、各自が有する「良心」から見れば、やはり他者を傷つけ、侮辱することは良くない、それを証明するために本来、長い説明は必要ないだろう。「冒涜する権利」は人を殺してはならないというのと同様、その是非は明確だからだ。各自が有する「良心」がそう囁くからだ。

世界には数多くの民族、国家、文化、言語がある。だから良心基準もその社会、国家によって異なるかもしれない。人類の歴史はある意味で「良心」と「他の良心」の戦いではなかったか、といった意見も聞く。確かに、民族、国家、文化、言語によって良心の規範も異なってくることは事実だが、人の「良心」はその相違点より多くの普遍性を有しているのではないか。

無法な社会はカオスだ。ただ、忘れてならない点は、法は各自が有している「良心」の最も受容可能な範囲を網羅したものだ、という点だ。法と「良心」は決して対立関係ではなく、相互補完関係だというべきだろう。「法」の外面性、「道徳」の内面性と表現できるだろう。

新型コロナウイルスの感染防止のために、各国はコロナ関連法を施行し、人の自由な移動、活動を制限する。そうすると、コロナ規制に抵抗する人々が出てきて、抗議デモをする。コロナ関連規制法は人間の基本的な権利を蹂躙しているといった法論争だ。

そこで「良心の声」に耳を傾ける必要性が出てくるわけだ。オーストリアのクルツ首相がコロナ規制に対し「各自の責任で対応すべきだ」と説明する。ここでいう「各自の責任」とは単に、「民事上の責任」、「刑事上の責任」、そして「行政上の責任」というより、「良心」の問題だろう。

「六法全書より良心は知っている」というコラムの見出しは、法律関係者から職場を奪いたいから付けたのではない。法と「良心」が調和した社会への思いを込めたからだ。社会規範として法が「良心」より余りにも大きな影響を行使している現実を見る度、「法の土台となっている『良心』はどこへ行ったのか」と聞きたくなるのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年10月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。