リベラルを考える② 民主主義の昔と今

2020年10月28日 14:00

今日は皆様と少し議論をさせて頂ければと思います。テーマは民主主義がどう変質化してきたのか、そして我々の向かう社会のあり方です。難しそうですが、簡単に、そして突っ込みどころ満載で私の思うところを書かせて頂きます。正直、私も定まった考えがあるわけではありません。もしかすると誰もその答えを知らないでしょう。だからこそ、議論する価値があるかと思います。

 

日経に「民主主義、少数派に 豊かさ描けず危機増幅」という特集が掲載されています。地球上の人類、国家の数において民主派と非民主派を比べると非民主派のほうが増えたというお題からスタートしています。日経の記事ではその原因を「低成長と富の集中」としています。これはこの報道に限らず、多くの主流派がそのように主張しています。私はそれが全てではないと考えています。なぜなら金銭的格差はごく一つのエレメントであり、民主の立ち位置の変化を捉え切れていない気がしているのです。

(写真AC:編集部)

(写真AC:編集部)

そもそも人類の歴史とは使用する側と使用される側の関係でほぼすべてを語れるぐらいでした。アテネやローマの時代からの奴隷、欧州などの荘園における領主と農奴や使役、そして工業化が始まれば経営側と労働者という純然たる格差が存在しています。日本でも当然、そのような歴史が存在していますが、欧米ほどの格差が生じなかったのは神道における「神様も労働する」という教えが背景にあったことは否めないでしょう。

労働組合という発想は18世紀の産業革命とともに発達したとされています。しかし、例えばフリーメーソンがそもそも石工の職人集団だったことを考えると案外、もっと古くからその労働組合の起源となる組織は存在したかもしれません。産業革命前でも農民一揆があったわけでそれも一つの使用者側の反乱、デモ、ストライキであったわけです。

こう見ると少なくとも20世紀までは使用者(経営者)と被使用者(労働者)との対立軸の中、物事を平和的に解決する算段の一つとして民主主義の基礎が生まれたと私は考えています。つまり、主権が一部の権力者に偏らず全ての民に等しく与えられるべきで、農園や会社のみならず国家そのものが民主的で平等で人としての権利を確保することでありました。

では21世紀に入り何が変質化したのでしょうか?それは金銭や労働環境問題以上に自分が所属する社会への参加手段としての主義主張が強く出てきたことは考えられないでしょうか?例えばLGBTQのメッカ、カナダでは私が来た92年にその主義主張をするグループの活動をみてびっくりしましたが、マイノリティとして彼らのパレードはどちらかと言えばお祭り的で楽し気でありました。ところがこの20年は立ち位置が完全に変わり、より政治的になり、企業がこぞって参加するようになり、消防署や警察官、更には首相までそのパレードの先陣を切るようになりました。

日本のようにほぼ単一民族で同じような教育を受けた国家だとわかりにくいと思いますが、世界には様々な国の出身の人が住み、国家の枠組みの中で微妙なバランスを取りながら生活をしています。が、世の中が豊かになるにつれ金銭や労働環境改善要求中心の労働組合的主張から宗教的、歴史的、社会的ポジションにおける自我の芽生えが発生しました。

例えば環境問題もそう、牛肉を食べる人は行けてないという声もそう。捕鯨の話もそうだし、フランスの風刺画の話もそうでしょう。あるいは戦後75年以上たって海外でやれ慰安婦像だ、南京事変だと主張するグループがあるのはそれまでそれらのことに配慮する余力がなかったのに今になり「そうだ、その恨みは果たさねば」というメンタル的余裕ができたこともありそうです。そしてそれらを後押ししたのが情報化社会であります。

それまでは主義主張をするにはビラを配り、デモをし、協力者を電話や街頭で募るという手法を取っていました。今はSNSで一瞬にして広域に伝えることができます。しかしそれが万全かと言えば新たな対立軸を生んだことも事実です。欧州の難民問題はそのひとつでした。

私は民主主義の不安定化とはいわゆる労働者、一般大衆といった中間層の経済的、教育的、情報的成熟化が引き起こした足並みの乱れであり、使用側、経営側はさほど立ち位置は変わっていないように見えるのです。

つまり私から見ればリベラルという名の主張が時として行き過ぎていないか、自壊していないかと心配になるのです。富や強権はそうさせたように見えるだけで本質は違うところにあるのではないか、と思うのです。

例えば富の格差について100倍だろうが1000倍だろうが多くの先進国に住む大半の民はそれぞれのレベルにあった普通の、そして平和な暮らしています。低所得者グループへの支援については国家や地方政府が様々な補助プログラムを提示しています。つまり、かつてあった賃金の不自由感から来る圧倒的差別意識ではないと思うのです。

タイのデモもある意味、今までできなかった行動が経済の成長の結果、政権や王室のことを考えることができた、そして多くの民がSNSで情報をシェアできるからゆえの動きではないでしょうか?

当然ながら国家は治安を最優先で考えます。それ故国家の強権と見えますが、民主主義の成長形は民のグループ化の促進を加速度的に進めることになり、国家としての一体感を維持するためにより高度な管理が必要になってきます。

我々の向かう社会、まだ私には想像ができません。が、危うさがあるとすればそれは「人間の性」から生じており、それを管理者である国家や自治体、政治家が操縦し得なくなった時ではないかと思っています。

いかがでしょうか?皆様の考えをお聞かせ願えればと思います。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年10月28日の記事より転載させていただきました。

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