主流 VS 反主流

かつて親たちは経済的に許せば子供に私立中学高校から一流大学、そして安定した有名企業(ないし役所務め)に、という希望を託したものです。今でもその傾向の名残はまだまだあると思いますが、理由は変わってきています。公立校のクラスメートの「まだら感」が嫌だからという理由であの時代の「人生一気通貫」的発想とはやや異にしています。

韓国の教育熱心は日本をはるかに上回りますが、ソウル大学に行けないなら海外で活躍せよ、という意味は何だったのか、と言えば主流にならなければ反主流で成功し、稼ぎ、親に楽をさせろであります。儒教の精神そのものであります。

日本において主流派が制する社会は今でもかなり見られます。保守的な一流企業で役員や昇進に東大法学部卒が幅を利かせているところもあるでしょう。役所はいわゆるキャリアとノンキャリでは雲泥の差でキャリアが無限の上昇の可能性に対してノンキャリは「行けてもここまで」という限界があります。

話題の学術会議。菅総理が「旧帝大所属会員が45%、それ以外の国公立大学が17%で私学は24%にとどまっている」というバランスの悪さを指摘しました。旧帝国大学は確かに威厳のある大学であり、学術の世界でも主流派が全体を制するという発想はいまだにあるのでしょう。

この傾向は中国、韓国では科挙の影響を否定できませんが、アメリカでもハーバードをはじめとする最高権威の大学や大学院卒は別格扱いとなっています。私はそれらを一種のサラブレッドと考えておりますが、血統や家柄が全てか、と言えばそんな時代でもなくなってきているのだろうと考えています。

トランプ大統領は政治経験ゼロ。これが今、再び比較対照的に指摘されています。バイデン氏が30数年間、政治家として積み上げてきたこととの対比でありますが、政治経験ゼロだからこそ、構造的障壁に穴を開けてきたし、「そんなことするかい?」という常識を覆してきたことも事実です。それらが全て正しくはなかったかもしれませんが、そんなやり方もあるのだな、と勉強させられた4年間でした。

(写真AC:編集部)

(写真AC:編集部)

日経ビジネスの連載、「オリエント 東西の叡智を未来に活かす」は思わず引き込まれる対談の連載なのですが、その中で経営コンサルタントの三谷宏治氏が「イノベーションは辺境で生まれる」と指摘しています。

ジョイフル本田(茨城)、カインズ(高崎)、ワークマン(群馬伊勢崎)、ヤマダ電機(高崎)、コジマ(栃木)、ケーズデンキ(茨城)…など北関東勢が多いのはなぜなのか、という点に関して「不便だからニーズが生まれ、イノベーションが生まれる」とあります。それを考え始めるとニトリは札幌だし、100均のダイソーは広島といった具合に地方発は多いのです。スーパーマーケットやドラッグストアでも地方が主導したものが多く、この街からこのビジネスが生まれるのか、ということが日本ではかなり起きているのです。

日本でも世界でも主流派が押さえる世界と反主流派が勢力を伸ばすしのぎあいだともいえるのでしょう。主流派は往々にして経験則判断主義であります。日本の役所や大企業において「前例がない」と言って前に進めない案件は山のようにあります。なぜ、前例に託するのかといえばメジャメント(尺度)がない世界においてチャレンジするより、減点主義社会の生き残り策としては「可もなく不可もなく」を良しとする機運が蔓延するからであります。

いわゆる既得権の蔓延が大規模なイノベーションにつながったケースとして突飛ですが、私は宗教改革を挙げたいと思います。16世紀に起きたローマカトリックからプロテスタントへの分離がなぜ起きたか、その大きな理由の一つはカソリック教会の堕落でありました。既得権に浸り、やるべきことをしなかったのであります。

今、アメリカではバイデン政権への移行が静かに進みますが、トランプ政権がひきおこした嵐は我々にとってイノベーティブであり、発想の転換を迫られたと思っています。これで平常な静けさを取り戻したと安どするのではなく、今こそ、新しい芽を息吹かせるときなのだろうと思います。

反骨精神が求められると思います。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年11月13日の記事より転載させていただきました。