明智光秀をめぐる謎を一刀両断する

2020年11月19日 06:00

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」も駆け足で本能寺へ向かっているが、それに伴ってテレビやSNSで「謎」が語られることも多いので、これまで私が書いてきたことを、まとめて紹介しておく。

ちょうど、信長の台頭から本能寺の変までについては、わたしは3月に刊行した『歴史の定説100の嘘と誤解   世界と日本の常識に挑む』(扶桑社新書)で、次のようにここ10年あまり主張してきたことをまとめておいた。それをそのまま紹介し、あわせて解説を付したい。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)

本能寺の変をマキャベリ的に解釈する
軽武装で信長と信忠が同時に在京したのはありえない油断だった

桶狭間の戦いで、名門・今川と守護代の家老上がりの織田とか言いますが、父親の織田信秀の時代には、今川義元に対して優位に立っており東海の覇者だったのです。

今川義元は、信秀と信長の中間世代です。今川家で義元が無事に継承し基盤を固めるまでの間隙を縫って、信秀は三河でも優位に立ちました。ところが、信秀の死後は弟との相続争いなどもあって今川優位になりました。しかし、信長は清洲と岩倉の守護代だったふたつの織田宗家や守護の斯波家をひとつずつ押さえ込んで尾張を統一しました。とはいえ、人心掌握はまだ不十分だったので、いまのうちにと今川義元が攻めてきたわけです。

信長は尾張の地侍に兵を出すように要請したもののサボタージュにあいます。しかし、兼業農家的な地侍でなく、フルタイムで働く者たちを出自にかかわらず集めて訓練して近代的な軍隊をつくり、桶狭間で勝利し、美濃も制圧すると一気に上洛しました。

やがて、ロートル武将のリストラが課題になってきて、佐久間信盛や林佐渡守が冷酷に追放され、明智光秀の仕事も減りました。そうしたとき、信長と嫡男信忠が同時に軽武装で在京し、畿内にある大兵力は明智軍団だけの瞬間が訪れました。信忠は家康と堺に行くはずがなぜか急に信長から呼び出されたのです。信長は信忠を将軍にし、自分は足利義満のように太政大臣から准三后あたりとして天皇の安土行幸を迎えるイメージを描き、一緒に参内でもするとか根回しをしようとしていたのでないかというのが私の推測です。

同時代に、イタリアのチェーザレ・ボルジアは、自分はすべての状況に備えていたが、父である教皇アレクサンドル6世が死んだときに、自分も瀕死の床にあることだけは想定していなかったとマキャベリにいったそうです。独裁者を倒しても後継者が無事では体制が崩れないというのがもっとも有効なテロ対策ですし、信長は信忠を育てるためにかなり努力もしてきたのが、大きなミスをしてしまったのです。

朝廷が黒幕というのは、正親町天皇は信長を支援し、早く上皇になりたかったのですから殺す動機はありません。光秀が思いつきだったのは、決行後に報せをあちこちに送るのが行き当たりばったりだったことでも分かります。四国攻めをめぐる信長と光秀の意見の対立は確かにありましたが、主たる動機としては弱すぎます。

しかし、それでも、秀吉の中国からの帰還が遅れたら、どうなったか分かりません。たとえば、細川幽斎や筒井順慶も光秀に積極的に味方しなかっただけなのです。

先般もドラマのなかで朝倉義景が、「織田のような成り上がり者が」と叫んでいたが、もともと、越前と尾張の守護を兼ねていた斯波氏の主な家臣のうち、甲斐氏が越前守護代、織田氏が尾張守護代になっている。朝倉氏は守護代のもうひとつ下である。ただ、応仁の乱で細川氏のために斯波氏を裏切った代償に二段階特進で越前守護になったのであって、織田より朝倉のほうが上だとはいえないのである。

「麒麟がくる」番組公式サイトより

織田氏はかなりの名門で、応仁の乱のころも京都で斯波氏を助けたりしている。もちろん、信長の弾正忠家は分家ではあるが、尾張統一の過程で家督を継いで宗家になっているのだから、格は高いのである。

今川が桁違いの大大名というのも間違いだ。信長の父親の全盛期には東海の覇者は織田信秀だった。信長が父の死後に尾張をまとめきれず苦労していただけだ。信秀は尾張第一の武将だったが、尾張の主だった武士がその家来だったわけでない。強いから味方していただけだった。

いってみれば、織田信秀は代議士であり、有力武士は県議か市議みたいな関係だ。そして、代議士が死んで息子が後継とはコンセンサスができてない状態だったのだ。しかし、桶狭間で勝ったあとは、全国的にみてももっとも上洛する可能性の高い武将になった。

そして、義昭を奉じて上洛した。ドラマではすぐに仲違いしたように描かれることがあるが(「麒麟が来る」ではそれほどでもないが)、両者が本格的に決裂したのは、幕府が滅びる数ヶ月前である。

義昭はほかの武将にも上洛してほしがっていたが、それは信長排除ではない。それでは、信長と義昭の対立はなにかといえば、義昭は織田家にその主君だった斯波家の地位を継承させようとし、それに対して、信長は平家であるという立場から、鎌倉将軍と北条氏、関東公方と後北条氏の関係のようなものを望んでいたと考えると非常に辻褄が合う。

オーナー社長とサラリーマン出身の有力役員のあいだに、互いに評価していてもよく生じる思惑の違いである。こういう見方はほかにあまりしている人はいないので、私のオリジナルだ。

本能寺の変については、上記で書いている通りだが、私の説の独自性は信長と信忠が予定外で、突然、軽武装で京都にいて、明智以外の大軍勢は誰もいないという信じがたいチャンスが光秀に訪れたことに着目したものだ。

かつて、塩野七生さんの本を読み、また、北朝鮮で金日成が死んで金正日になったときに、代わりがいない体制の危うさと本能寺の変を重ね合わせた。それをここ10年あまりあちこちで主張し書いてきたが、このごろ、追随者がぼちぼち出てテレビの歴史番組でそんなことをいっている人もいて結構なことだと思っている。

それから、細川幽斎は明智につかなかったが、明智と戦ったわけでない。筒井も洞ヶ峠だった。秀吉の中国大返しが遅れていたら、かなり多くの武将が明智に着いた可能性はある。

また、計画性ということでいえば、計画性があったら光秀があちこちに連絡したのが遅すぎる。とくに、信長の弟の信行の子で信長も高く評価し、光秀の娘婿だった津田信澄が丹羽長秀や織田信孝にやすやすと殺されたのは、まことにもって不思議だ。光秀は彼を織田の跡取りとして担げたはずなのだ。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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