邪馬台国九州・畿内並存説~魏志倭人伝の矛盾を解く --- 浦野 文孝

2020年11月22日 06:00

歴史堂vol.12(朝日新聞出版、11月6日)の特集は「古代史の謎を解き明かす」である。初めての古代史特集だそうだ。「謎の女王卑弥呼の正体」は武光誠さん監修、「邪馬台国はどこにあったのか?」は仁藤淳史さん監修による。

邪馬台国のイメージに近いとされる佐賀・吉野ヶ里遺跡(RERE0204/写真AC)

武光さんは九州説によりながらも、奈良の纏向(まきむく)遺跡に注目する。卑弥呼と同時代の3世紀に発展した遺跡である。日本各地の土器が出土し、大型建物群跡も見られ、邪馬台国の都にふさわしいとされる。巨大古墳の先駆けである箸墓古墳は卑弥呼の墓だという説もある。

仁藤さんは、九州説の拠り所である邪馬台国までの総距離(1万2000余里)を実際の距離ではないと否定する。八幡和郎さんがアゴラ記事(19年12月19日) で紹介しているように、魏志倭人伝は「帯方郡(現ソウル近辺)より邪馬台国に至るには1万2000余里」と記述している。九州の上陸地点である末盧国(東松浦半島)まで1万里、さらに伊都国・奴国・不弥国までを合計すると1万700里で、残りは1300里だから、邪馬台国は九州北部を出ないはずである。

これに対し、仁藤さんは、当時の中国の世界観では「1万2000余里」は異民族が住む世界の外れを指す観念的な数字であり、九州説は成り立たないとしている(15年の福岡シンポジウムでも同様の基調講演をされている。「纏向発見と邪馬台国の全貌」、角川文化振興財団、2016年)。

特集全体では畿内説支持のように見受けられる。纏向遺跡によって畿内説は勢いづいており、仁藤さんの観念的数字説で補強された形となっている。

纏向遺跡は畿内説の根拠として疑問

私は纏向遺跡を卑弥呼の都だったとすることにも、「1万2000余里」を観念的な数字だから意味がないと割り切ることにも、疑問がある。

纏向遺跡が邪馬台国と同時代の大国だったとしても、卑弥呼が魏から授かったという金印が出土しているわけでもなく、考古学だけで卑弥呼が住んでいたと断定することはできない。箸墓古墳は、日本書記からは倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓だとされる。巫女として書かれているが、大物主神を夫としており(夫との仲違いが原因で死ぬ)、独身の女王だったとされる卑弥呼に似つかわしくない。

世界の外れだと表したい時に「1万2000余里」と表現することにも疑問がある。帯方郡から不弥国までを1万700里と記述しているのだから、邪馬台国が遠い国だと見せたいならば、せめて「2万2000余里」のようなもっと大きい数字で表現するのではないだろうか。

「1300里」と「水行30日・陸行1月」の矛盾の説明

魏志倭人伝は不弥国から邪馬台国は里数ではなく、「南へ水行30日・陸行1月」と日数で記述している。わずか「1300里」に「水行30日・陸行1月」もかかるはずがない。しかも「南へ水行30日」で行くような所に「陸行1月」も歩く陸地は存在しない。明らかに魏志倭人伝のどこかが間違っており、邪馬台国論争が決着せず、様々な解釈が生まれる原因になってきた。

逆に言えば、「1万2000里」と「南へ水行30日・陸行1月」という矛盾がなぜ記述されたのかが解明できれば、邪馬台国がどこにあったのかも明らかになるはずである。

私は、邪馬台国が九州と畿内の両方にあったとすれば、説明できると考えている。九州は福岡の旧山門(やまと)郡(現みやま市瀬高町)の可能性が高い。畿内は纏向遺跡のある大和である。以下のようなストーリーだったのではないかと考えている。

山門から大和への移住と交易

山門にあった「邪馬台国」の一部集団が、倭国大乱が収まった西暦180年ぐらいから瀬戸内海を通って、大和に移住した。彼らは移住先でも「邪馬台国」を名乗った。

移住があったことは、九州と畿内の地名が類似していることからもわかる。鏡味完二氏は「九州と近畿の間に、十一組の対の相似地名をとり出すことができる。…(それらの地名は)ヤマトを中心としている。…これは…九州から近畿への大きい民団の移住ということを暗示している」と指摘する(※「日本の地名」、角川新書、1964年)。

相似地名として、九州の山門-志賀-耳納(みのう)-日田と、近畿の大和-滋賀-美濃-飛騨といった事例をあげている。
山門のある筑後平野は紀元前の早くから開けたから、九州の地名の方が古いことは間違いない。神武天皇が日向(宮崎)を出発して、瀬戸内海を通り、大和に移住したという神武東征は、何回にもわたる集団の移住を1人の英雄の物語にまとめたものだろう。

なお、ここでは詳しく説明しないが、古代日本語では、山門の「ト」の音は甲類、大和の「ト」は乙類であり、異なる音だったとされている。私は音韻の変化だと説明できると思う。

九州北部と畿内にはその後も頻繁な交流・交易があった。弥生後期に鉄器が九州北部から畿内へ、畿内式土器が九州北部に普及していった。山門と大和の邪馬台国の集団も両地域を行き来しただろう。九州北部から瀬戸内・畿内にかけて、国同士の緩やかな結びつきがあったと思われる。

陳寿は2つの異なる報告を混在させた

卑弥呼は山門に住んで魏に使いを送り、魏からの使者は240年、247年に九州北部を訪れ、伊都国に滞在したが、邪馬台国には行かなかったと考えられる。使者たちは山門の倭人からも大和の倭人からも話を聞いたのではないか。そのため魏には2つの異なる報告が伝わった。

ある報告には山門の邪馬台国のことが比較的正確に記録されていたと考えられる。以下のような報告だけだったならば、邪馬台国は素直に九州北部だと説明できた。

・帯方郡より(中略)不弥国に至る(合計すると1万700里)
・伊都国・不弥国から南して投馬国・邪馬台国に至る。卑弥呼の都とする所
・邪馬台国の南に狗奴国あり。卑弥呼に属さない
・帯方郡より邪馬台国に至るには1万2000余里
・邪馬台国の東、海を渡ること1000余里、また国があり皆倭種

一方、大和の邪馬台国について、以下のような報告があったのではないか。

・不弥国から南して投馬国・邪馬台国に至るには水行30日・陸行1月
・投馬国は5万余戸ばかり。邪馬台国は7万余戸ばかり
・邪馬台国は中国の会稽(かいけい)・東冶(とうや)(現浙江省・福建省)の東にある(この通りだとすると沖縄近辺になる)
・男子は皆顔や体に入れ墨をする
・温暖にして冬夏生野菜を食す

これらは意図的な誤りである。魏の使者は、邪馬台国を南方の大国だと報告しなければならない事情があったと考えられる。当時の中国は魏・呉・蜀の三国時代であり、魏は呉を牽制する必要があった(遠交近攻)。大和を呉のすぐ東にある大国に仕立て上げ、風習・気候まで南方系にしてしまったのではないか。

山門の情報は既に呉に伝わっている可能性がある。大和の邪馬台国は、呉を牽制する絶好の新興国だったのではないだろうか。

魏志倭人伝を記した陳寿は「1万2000余里」「水行30日・陸行1月」という矛盾する記録に戸惑ったに違いない。魏志倭人伝は陳寿が記した三国志のごく一部である。推敲の余裕はなく、矛盾する記録をただつなげて混在させたと考えられる。

これが私の邪馬台国九州・畿内並存説の概要である。並存説はネットで調べたら先人がいた(※新邪馬台国論、大和岩雄、2000年、他)。私の説は2つの邪馬台国の成り立ちや、魏志倭人伝に2つが混在した理由の説明が異なる。

大和の邪馬台国は西暦300年ぐらいから大和政権に発展した。

一方、鉄器の普及に伴い、九州北部の優位性は失われ、山門の邪馬台国は狗奴国(熊本)によって滅ぼされた可能性が高い。大和政権が九州遠征して敵を討ったのが、景行天皇や日本武尊、神功皇后の熊襲征伐の物語になったのではないだろうか。日本書記には、景行天皇が九州遠征で山門の先の八女・うきはまで立ち寄って、女神が山中にいるという話を聞いたという逸話がある。大和政権は卑弥呼のことを懐かしんだに違いない。

浦野 文孝 元ジャーナリスト
1961年生まれ、愛知県出身、千葉県在住。大学卒業後、団体職員・雑誌記者等を経て現在は食品会社勤務。政治や歴史に関心の高い一般市民。

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