比叡山延暦寺はなぜ信長に焼かれたのか真相に迫る

八幡 和郎

NHK大河ドラマ公式サイト予告動画より

本日の『麒麟がくる』は比叡山焼き討ちがテーマらしい。そこで、私がかつて書いた「浅井/三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)から、そんほ該当部分を少し補筆して紹介したい。これは、浅井三姉妹のうち次女の京極初子の回想記の形を取っているが、司馬遼太郎さんなどと違って、嘘は書いていない。分からないところは、記憶がはっきりしないとかいう言葉で区別している。

比叡山延暦寺が中世において持っていた力は、現代の人にはなかなか理解できないと思います。延暦寺は伝法大師が王城鎮護のために創られた由来もあり、皇室とはとても大事なお寺ですし、天台宗の有力寺院は皇室や摂関家の子どもたちのいわば天下り先でもありました。

各寺院は荘園をたくさん持っていましたからとても豊かだったのです。しかも、平安時代からは朝廷は本格的な常備軍を持っていませんでしたから、比叡山の僧兵たちが京都周辺では最大の武装勢力だという時代もありました。源氏や平家というのは、叡山より強い軍事集団が必要だということで、摂関家と院がそれぞれ育てたものです。

鎌倉時代や室町時代には平安時代ほどの力はありませんでしたが、金持ちで、そこそこの武力を持ち、しかも、宗教団体ですから攻撃されにくいという立場でした。しかも、このころの京都周辺の金融業者の半分以上が坂本に本拠を置いていたといいます。

ただ、近江の土豪たちはしきりとお寺の持つ荘園を横領し、それが政争のたねになっていたこともすでに紹介した通りです。そんなわけで、もともと、浅井や六角と叡山の関係は良くなかったのですが、対信長では手を組むことになりました。

さらに、信長さまが叡山のライバルである園城寺(三井寺)と親しく、たびたび宿舎として利用されていたことも気に障ったのかも知れません。

延暦寺阿弥陀堂(ziggy_mars/iStock)

近江では天台宗と並んで一向宗も大勢力でした。なにしろ、蓮如上人が京都を逃れて近江や越前におられたことがあるのです。近江の国でも堅田周辺、野洲郡、それに浅井家の領地である湖北はとくに一向宗が強いところでした。

といっても、石山本願寺は、もともと信長さまと対立していたのではないのですが、徐々に一向宗への信長さまからの干渉が強まったことから関係はとげとげしくなっておりました。三河の一向一揆で家康公がいっとき窮地に追い込まれたとか、尾張に近い伊勢長島の門徒が信長さまのお膝元で反抗的だったことも信長さまをいらだたせたことでしょう。

しかも、朝倉家と本願寺の大谷家は縁組みをしていたのでございます。

さて、この年には、全国的には信長さまへの包囲網はかえって強まっておりました。が、信長さまは前の年に京都と岐阜の間の連絡を絶たれて苦労されたこともあって、近江の制圧に全力を注がれました。

このために、浅井家は矢面に立ってたいへんな苦難が続くことになったのでございます。

とくに痛かったのは、佐和山城の磯野員昌が投降したことです。佐和山は東山道と北国街道の分岐点にあり湖北で最重要の要衝ですので、長政は姉川合戦でも活躍した員昌にここを守らせていました。

しかし、まわりを織田方に囲まれてだんだん孤立していったころ、織田方は員昌が内通しているという噂を盛んに流しました。そこで、長政は佐和山への救援を少し手控えられたのでございます。

これが、仇になりました。員昌は織田方に降ったのでした。一説によると、内通の噂に怒った浅井方が人質に取っていた員昌の母親を殺して晒したのが原因ともいわれていますが、私は子供でしたから、本当かよく分かりません。

織田信長像(愛知・長興寺所蔵/Wikipedia)

いずれにしても、磯野は高島郡を任すという条件で大溝に退去しました。のちに員昌は養子として信長さまの甥である信澄さま(信長さまと跡目を争った信行さまの忘れ形見です)を押しつけられ出奔することになりますが、それはのちのことです。

そして、佐和山城には丹羽長秀さまが入られました。そして、八月には信長さまが自ら近江に出陣して、小谷城を攻めたり、一向宗の拠点だった金ヶ森などを攻略し、包囲網は徐々に狭まってきたのです。

九月になると、信長さまは本陣を園城寺に置かれて叡山への攻撃にかかられました。信長さまは年初に細川藤孝さまが岐阜へ祝いをのべに赴いたときに、「今年こそは叡山を滅ぼす」といっていたくらいなのですが、叡山のお坊さんたちはさすがにそんなことはできないだろうと甘く見られていたのでございます。

ただし、叡山の堂舎を焼き払うことくらいは、将軍義教らもしており、そんなめずらしいことではありません。ただ、このときには、それだけでなく、僧やそこに逃げ込んでいた女性や子どもまで殺戮したとのことです。これはさすがに、前代未聞のことで、全国の人々をそれはそれはもう、信長さまの恐ろしさにふるえあがったのございました。