光秀と信長の真実②~武田信玄がついに立った事情

2020年11月24日 06:00

「光秀と信長の真実① 浅井・朝倉連合軍との戦い」はこちら

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。

姉川の戦いに勝って、信長さまは岐阜城に帰られたのですが、このあと最大の苦境に立たされたのです。

織田信長像(愛知・長興寺所蔵、Wikipedia

三好三人衆は、この年の7月に四国勢などを率いて石山本願寺に近い野田城や福島城に入って兵を挙げました。信長さまは岐阜から急行され、義昭さまも織田方を助けるために出陣、松永久秀さまや河内の畠山昭高も参陣されました。

ところが、ここで、石山本願寺の顕如上人が信長さまからまるで堅固な城のようになっていた石山本願寺を破却して退去するように勧告されたのを怒って参戦されましたので、戦線は膠着状態になります。

これを見て立ち上がったのが浅井・朝倉とかつては浅井の宿敵だった六角義賢さまの勢力の連合軍で、比叡山延暦寺とも連携しての行動でした。ほとんど近江一国上げて信長さまの敵になったのです。このころ、大津方面での織田方の拠点は比叡山の南にある宇佐山城で、森可成さまが守っていました。

可成さまは堅田の土豪たちの加勢もあって、叡山の里坊がある坂本に進出して浅井などの軍を迎え撃ちますが、多勢に無勢で戦死し、長政は京都を窺う勢いになりました。

これを聞いて信長さまは京都に急ぎ戻られましたので、浅井・朝倉勢は叡山に退き籠もりました。信長さまは延暦寺に浅井・朝倉を山内から追放すれば奪われた荘園を返還するなど申し入れたり、朝倉氏には決戦を申し込んだりしました。しかも、伊勢では長島の一向宗の門徒が蜂起し、信長さまの別の弟である信興さままで戦死されました。

こうして絶体絶命に陥った信長さまは義昭さまや関白二条晴良さまに坂本までお出まし願い、正親町天皇まで巻き込んで晴良に和平勧告をしてもらいました。このとき、義昭さまは仲裁者でなく、信長方の一員という立場での参加でした。

このとき、浅井としてはもっと粘りたかったのですが、冬が近づいていましたので、朝倉勢が帰国を望んだことが画龍点晴を欠くことになりました。とくに朝倉が北近江の支配権を信長が三分の二で浅井が三分の一としたことは大打撃になりました。こうして織田軍は勢多まで兵を引き、浅井・朝倉は湖西の道を北へ向かって引き上げ、久しぶりに長政も家族のもとへ帰ってきました。

このころ、京極高吉さまは将軍義昭さまの側におりましたので、「自分の家臣である浅井家は義昭さまに反旗を翻した謀反人だ」と糾弾し、土豪たちに浅井から信長さまに寝返るように勧めるなくてはいけない立場にありました。といっても、信長さまからは去就を疑われる立場ですから、息子の高次を岐阜に人質に出しました。お市が実家と嫁ぎ先のあいだで苦悩したように、マリアも同じような立場にいたわけで、これがしばらくしてキリシタンに入信する動機になったかも知れません。しかし、ここで信長さまについておいたことは京極家にとって幸運につながるのです。

そして、大事件が起こります。信長さまが延暦寺が浅井・朝倉の兵を匿っているとして比叡山を焼き討ちにしたのです。元亀2年9月のことですが、それはすでに「比叡山延暦寺はなぜ信長に焼かれたのか真相に迫る」(2020年11月22日 )で紹介した通りです。

二条城にいた足利義昭さまの側近には、細川藤孝さまや明智光秀さまなどもいましたが、彼らは信長さまの指揮下でも働いていて、微妙な立場になっておりました。そして、幕府では信長派の人々とアンチ信長派の確執が激しくなってきたのでございます。

といっても、この段階では義昭さまはあからさまな形では反信長ではありません。各地の武将に上洛を呼びかけはしますが、信長を排除せよとはいっておりません。義昭さまは京都に屋敷を持たない信長さまのために武者小路に屋敷を建てて京都に住むように勧めたりもして、彼なりに融和策を採りました。

小谷城への織田方の攻勢はますます厳しく包囲網は狭まってきておりました。7月にはこの年の始めに元服していた(信長さま嫡男の)信忠さまの初陣と言うことで出陣され、清水谷にあった武家屋敷や浅井館を焼き尽くしました。記憶は定かでありませんが、このころに、麓の館から山上の城に私たちも移り住みました。

このころ、信長さまは義昭さまに「異見一七箇条」という糾弾書をつきつけ、政治姿勢を全般にわたって批判され、「悪しき御所という評判だ」とまでおっしゃったのです。

こうしたころ、ついに、武田信玄さまが動き出します。といっても、ことは複雑でございました。それは、むしろ最初は、信玄さまは家康さまと争われたのであって、できるだけ信長さまの機嫌を損じないようにされていました。

歌川国芳画 武田信玄像(Wikipedia)

信玄さまは遠江や三河の山間部の支配をめぐって家康さまと争っておられました。その意味では同じ織田陣営のなかでの内輪もめです。ところが、信長さまは家康さまの肩を持たれる。それが信玄さまの不満だったともいえます。

このころ、美濃の西部にある岩村城では、遠山景任さまの未亡人で信長さまの叔母である「おつや」さまが信長さまの子である勝信さまを養子としてこの城にありましたが、武田方の秋山友信さまは自分と結婚して一緒に治めないかとお勧めになり、おつやさまは、これを承知してしまったのです。

12月には三方ヶ原の戦いで徳川軍と武田軍が激突しました。武田軍が東三河侵攻のために浜松城を無視して進軍しようとしたのを家康さまが迎え撃たれたのです。

狩野探幽画 – 大阪城天守閣蔵(Wikipedia)

このとき、信長さまは城から出ないようにとおっしゃったようですが、家康さまは街道一の弓取りとしての誇りから打って出られました。

戦いはあっけないもので、武田方の勝利に終わり、家康さまは浜松城に逃げ込まれました。信長さまは近江などで戦っておられたときですから余力はなかったのですが、家康さまへの友情から三千の兵を出されました。そして、こうして援軍を出したことが、武田と織田の最終的な友好関係の終わりになりました。

浅井/三姉妹の戦国日記 (文春文庫)
八幡衣代, 八幡和郎
文藝春秋
2010-10-08
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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