光秀と信長の真実③ 足利幕府の滅亡と小谷落城

2020年11月25日 06:00

「光秀と信長の真実① 浅井・朝倉連合軍との戦い」はこちら
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※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。

武田信玄さまが本当に勢多の唐橋に旗指物を掲げるつもりで西上されたのかどうかは何ともいえません。もしかすると、徳川領について信長さまとの取引きを狙われただけかも知れません。

もちろん、場合によっては信長さまと対決するという気持ちはあったのでしょうが、長く京都に留まるだけの力はなかったのではないでしょうか。

信玄さまの領地は太閤検地のときの数字を当てはめると60万石くらい、だいたい、尾張一国とか朝倉氏が支配する越前・若狭両国と同じくらいです。勝頼さまの時代には少し増えて90万石くらいですが、信長さまの支配地の豊かさとは比べものになりません。

浅井長政像(高野山持明院蔵/Wikipedia)

浅井家の娘としていわせてもらえば、信長さまにとって最強の敵は、武田信玄さまなどでなく我が父である浅井長政だったと胸を張りたいのです。ただ、元亀3年(1572年)暮れの情勢からいえば、信長さまのまわりは敵だらけでしたから、武田が思いきって織田と全面対決をして尾張、美濃に進出すれば信長さまも安閑としておられなかったでしょう。

ところが、冬が近づいたというので、朝倉勢が近江から撤兵してしまったのです。毎度のことですが、浅井家としても茫然自失です。この裏切りに信玄さまはたいへん怒られ叱責する手紙を朝倉義景さまに送られたのですが、朝倉は知らん顔です。そして、野田城を囲んだまま越年されていた信玄さまは、病気になられたのです。城中から聞こえる笛の音に聞き入っているときに狙撃されたという伝説もありますが、事実ではないでしょう。

信玄さまはもともと肺を病んでおられ、硫黄の臭いが立ちこめるような温泉好きだったので、ますます悪くされたという説もあります。どちらにしても、療養のために躑躅崎に帰ることにされたのですが、伊那谷の駒場というところで亡くなりました。4月のことでございました。そしてその死は遺言で3年間秘密とされたのでございます。

信長さまは朝倉は引き上げ、武田軍の進撃が止まった時を逃さず、上洛され、義昭さまを威嚇するために、なんと、上京一帯を焼き払ってしまいました。正親町天皇の仲裁でとりあえず収まりました。が、義昭さまは信玄さまの死をしらなかったこともあり、また、毛利をあてにして、ついに公然と反信長の狼煙を上げられたのでございます。つまり、このときになってはじめて、浅井・朝倉側につかれたのです。

宇治の槇島城にこもられたのですが、「巨星墜つ(信玄さまの死)」という情報を早くにつかんでおられた信長さまは強気に出て、義昭さまを城から追い出しました。これが、世に言う「室町幕府の滅亡」です。

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置/Wikipedia)

7月になって元亀から天正への改元がありました。そして、このころから、小谷城への最終攻撃の準備が始まります。湖岸にある山本山城の阿閉貞征が寝返ったのは、それはもう、浅井にとって大きな痛手でございました。

このころになるとさすがに朝倉義景さまも危機感を感じられたのか、自ら大軍とともに救援に来てくださったのですが、すでに小谷城はは包囲されて身動きが出来ない有様でした。

織田軍は一気に朝倉軍に襲いかかり、たまらず、朝倉軍は退却して越前に引き上げようとしますが、内応する者も多く、国境にある刀根坂の戦いで大損害を出します。山内一豊さまが額に矢を受けて引き抜いたものの大怪我をされたという「巧妙が辻」でおなじみのエピソードはこのときのことです。義景さまも一乗谷を棄てて大野に逃げられたものの追い詰められて自刃されてしまいました。8月20日のことです。

 信長さまはとりあえず、越前の支配を帰順した前波長俊ら朝倉旧臣にまかせ、すぐに近江にとって返し、小谷城への最終攻撃がついに始まったのでございます。

全国の山城のなかでも屈指の名城といわれた小谷城は、小谷山の頂上から下ってきたところの稜線に築かれています。居館はもともとは麓の清水谷にありましたが、戦乱が激しくなって、山上に女たちまで住める居館まで備えた「小谷城」ができたのです。

落城のきっかけになったのは、清水谷から密かに水手口を上ってきた木下藤吉郎さまが、内応する者の手引きで本丸の背後の京極丸を占領し、これでさらに奧にあった小丸の久政と本丸の長政の連絡が遮断されてしまったことです。正確な日付についてはたしかでありませんが、28日には(祖父の)久政が自刃。ついで、信長さまが自ら本丸を攻撃され、9月1日には(父の)長政も本丸の横にある赤尾丸で自刃したと聞いています。

このときの詳しい経緯はもうひとつよく分かっていません。久政の自害のあとは激しい戦闘も止み、ある記録によると、投降する話もあったようなのですが、手違いもあって自害したとも言われております。

初(常高院)の肖像画(常高寺所蔵/Wikipedia)

わたくしたち三姉妹と母のお市がどうやって脱出したのか、わたくし、数えで5歳でしたので記憶がありません。妹のお江は生まれたばかりでした。私が聞いているところでは、藤掛三河守永勝という織田家からお市の方の嫁入りについてきたものが先導したといいます。父長政の死をめぐる少し不自然な動きから考えて、久政が自刃したのちに、私たちのことも含めて話し合いがあったのかもしれません。兄の万福丸は逃がされていたのですが、関ヶ原で信長さまの命令を受けた木下藤吉郎さまによって串刺しにされました。

こうして、小谷城は落城して浅井家は滅びました。私たちは、とりあえず、母と同母兄弟である伊勢上野城主(伊賀上野と間違っておられる方もおられますが、これは現在の津市内にある城です)の織田信包さまのところにお世話になることになりました。信長さまとしても母のお市の方と顔を合わせるのは気まずいのでそうしたのでしょう。

浅井/三姉妹の戦国日記 (文春文庫)
八幡衣代, 八幡和郎
文藝春秋
2010-10-08
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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