光秀と信長の真実④ 武田滅亡から本能寺の変へ

八幡 和郎

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※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)

明智光秀さまがどうして謀反を起こされたかを理解できなかったのは、信長さまだけだったのではないかと思うことがございます。

江戸時代ですら秀吉さまの人気は衰えなかったのですが、信長さまは気が短く残酷な人だとされ、謀反されたのも無理はないというのが一般の見方でした。20世紀の終わりあたりから改革者としての信長さまがもてはやされておりますし、それは誤った評価ではないのですが、同時代の人にとっては、それはそれはおそろしい人でございました。

だからこそ、足利義昭さまを追放されたすぐのちに、安国寺恵瓊さまが「信長さまはいずれ高転びするのではないか。それにひきかえ、木下藤吉郎はさりはとての人物だ」と見事な予言をしますが、多くの人が似たことは感じていたのでしょう。

明智光秀(本徳寺所蔵 /Wikipedia)

あの天正10年(1582年)におきたことは、他の武将がいずれも遠国に出かけておられるときに、信長さまの信頼を失いつつあるのでないかと心配になっておれた光秀さまが軍団とともに京都に近い丹波におられ、信長さまとすでに家督を譲られていた信忠さまが、少人数の伴だけを連れて、両方とも京都市内で、しかも、ごく地理的に近いところにおられたことが原因のすべてです。

このまたとない状況を発見された光秀さまは、西国街道と山陰道が分かれる老ノ坂から京へ向かって駆け下りて桂川を渡り、(いまの寺町御池ではなく)西洞院六角にあった本能寺を襲ったのです。このとき、信忠さまは(いまの新町鞍馬口でなく)二条衣棚にあった妙覚寺におられましたが、本能寺に駆けつけるのには手遅れと聞き、とりあえず、皇太子である誠仁殿下にお住まいだった二条城から退出いただいて信忠さまはそこで籠城されました。落ち延びることをまわりの者は勧めましたが、逃げ切れず敵の手にかかることになっては無念だとして、しばしの抵抗ののち、脱出を試みることなく自害されました。

このような諦めの良さは現代の方にはご理解いただけないでしょうが、戦国の世にあっては普通のことだったのでございます。このとき、徳川家康さまは、安土、京都のあと堺見物に出かけておられ、少人数では無事に三河にたどりつけまいと、「知恩院に入って腹を切りたい」と仰り他の者もいったん同意したのです。雑兵や農民などの手にかかって死ぬ可能性があるなら、自分で死んだ方がましという価値観はかなり広く戦国武士にはあったということなのです。

しかし、本多忠勝さまだけが断固、生き延びることを試みるべしと諫言されたので、心変わりされて枚方のあたりから京田辺のあたりを抜けられ、信楽の多羅尾、伊賀の柘植を通り鈴鹿の白子から乗船されて帰国されたのです。一方、堺見物などに同行していた穴山梅幸さまは別の道をとられたのですが、南山城の山中で夜盗の手にかかって無惨な最期をとげられました。

いずれにせよ、信長さまが亡くなっても、信忠さまが健在である限りは、織田の天下はびくともしないはずでございました。ところが、なんと、2人とも同時に亡くなるということが起きてしまったのです。

Josiah S/iStock

どうして、こんなことになる危険を信長さまともあろう方が犯されたかは分かりません。ひとつの推測としては、この京都滞在を機会に、先ほど申し上げましたように、信忠さまを征夷大将軍などしかるべき地位に任官などしてもらって信長さまのあとに備えようとしたのに、とんでもないやぶ蛇になったということです。

朝廷をないがしろにしたので、正親町天皇が黒幕となって事件が起きたなどと不謹慎なことをいう方もいますが、「軍事的圧力」などといわれる「馬揃え」は天皇や公家衆など大喜びだったのですし、「譲位を迫った」などというのも、譲位をして院政へ移行することは天皇ご自身のそれは強い願いだったのですから話になりません。もしかしたら、といえばきりがありませんが、あまり上等な推理とは言いかねるようです。

もちろん、信長さまのやり方には危ないものを感じている人はどこの世界にも多かったので、光秀さまにきっかけを与えた人はいたかも知れませんが、たまたま、信じられないような絶好のチャンスが到来したのをみて、光秀さまが出来心で動かれたとみるべきでしょう。

光秀さまの行動は、結果からみるほど無謀だったのではありません。このときに、この物語でもこれまで登場した浅井重臣の阿閉貞征、京極高次さま、それに若狭の武田元明さまのように呼応した武将もいますし、筒井順慶さまにしても洞ヶ峠を決め込みました。細川藤孝さまにしても光秀さまにつく道を完全に閉ざしたのではありませんでした。足利義昭さま、毛利輝元さま、本願寺、それに上杉や武田残党などいくらでも味方はいたはずです。

ただ、羽柴秀吉さまの中国からの上洛があまりにも早かったとか、家康さまが無事に逃げ帰られたので、それが形にならなかっただけなのございます。