織田と豊臣の真実①お市に秀吉は惚れていた?

八幡 和郎

『麒麟がくる』にあわせて私がかつて書いた「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫、八幡衣代との共著)の内容をもとに編集して「光秀と信長」という形で連載したら好評だったので、本能寺の変で終わらせずに続きを少し連載しようと思う。三姉妹の次女である京極初子の回想記の形を取っています。

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私たち三姉妹は、小谷落城のあと、母であるお市の兄弟である織田信包さまの伊勢上野城(伊賀上野とは別)に一時滞在しましたが、本能寺の変を聞いたときは、信長の母である土田御前などとともに清洲におりました(諸説あり)。そして、それからの数年は、運命の徒に弄ばれる激動の日々でした。

私たちは本能寺の変からしばらくのちに、母が柴田勝家さまと結婚することになったので、越前の北之庄(現在の福井)に引っ越すことになりました。

この結婚について、お市の方を恋慕していた羽柴秀吉さまを嫌った母が当てつけにライバルである勝家様と結婚したのだとか、やはり秀吉様と対立していた信長様の三男である信孝様の斡旋だとかいう人がいますが事実ではありません。  江戸時代になってから言われ出したことでございます。

高野山持明院蔵「浅井長政夫人(お市の方)像」(Wikipedia)

そもそも、私の母は秀吉様に会った記憶はないと申しておりました。長政とお市の結婚のころ、秀吉さまはそのころ織田家の重臣でもありませんでしたから、会う機会があったとは限りませんし、少なくとも、母は記憶していないと言うことでした。

狩野光信画 豊臣秀吉肖像、一部(高台寺所蔵:Wikipedia)

小谷城が落城したときにも、私は幼児だったから覚えておりませんが、秀吉さまは城の背後から攻めておられていましたから、正面に陣を張られていた信長さまの陣営にはおられなかったはずですので、このときも、会う機会はなかった可能性が強いのです。さらに、そののちも、西国を転戦していた秀吉さまが私たちがいた清洲に立ち寄られたという記憶もないのです。

そうして考えてみると、秀吉さまが私たちの母であるお市に特別な思い入れがあるとも思えません。母が秀吉さまを個人的に毛嫌いしていたなどという人もいますが、浅井攻めの司令官だったというのがいい印象でなかったのはたしかでしょうが、私たちの兄である万福丸の処刑などは信長さまのいいつけで担当しただけですから、とくに特別に悪い感情をもっていたというのは、根拠がある話ではないのです。

私たちの母であるお市は、清洲会議のまえに柴田勝家と結婚することが決まっていたか、本能寺の変のあとすぐに決まった話なのです。

この結婚がどのような経緯で決まったのか、子供だった私には詳しい事情は分かりません。よく信孝さまの斡旋でといわれますが、母と信孝さまがとくに親しいわけでもなかったし、お世話になっていた信包さまは秀吉さまと行動をともにされるのだから、信孝さまの指図を受ける立場ではありません。

そこで、まったくの推察に過ぎませんが、信長さまの生前から、勝家さまの後添えにというお話があったのでなければ、信包さま、それにお市の母である土田御前あたりの意向ではないでしょうか。

信長さまが亡くなったあとお市や娘たちの面倒を誰が見るかは難しい問題になっていましたから、土田御前が娘のことを心配して、旧知で独身である勝家さまに嫁がれては、と思いつくのはありそうなことだからです。そして、信包さまらと相談して決められたということだと納得がいくのです。

こうして私たちは、清洲城を出て、越前への旅に出たのでございます。その途中に、浅井の旧領である湖北を通り、小谷城を麓から眺めることになりました。宿泊した寺院などには、浅井家の縁者たちで訪ねてくる者もあったように記憶いたします。母にとっては、懐かしくはあるが、辛い記憶を思い出すことになる旅でございました。