織田と豊臣の真実② 清洲会議と信長の子供たち

2020年11月28日 06:00

「織田と豊臣の真実① お市に秀吉は惚れていた?」はこちら

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。

清洲城(Oliver Mayer/Wikipedia)

清洲会議というのがあって、織田家の宿老が清洲城に集まって、信長さまの跡目を話し合われたといいますが、それは間違いです。織田家の家督は、信長さまが安土に引っ越されるときに信忠さまが継いでおられたのです。

ですから信忠さまの後継者を決める会議だったのです。ただ、信忠さまには正式に認められた嫡子がおられなかったのです。永禄10年(1567年)、信忠さまは11歳の時に7歳だった武田信玄の五女松姫さまと婚約されたのです。のちに上杉景勝公の正室となられた菊姫さまの同母のお姉さまです。

ところが、元亀3年(1572年)に織田と武田が手切れになったことからこの婚約は棚上げになったのです。しかし、完全に破談になったのでなかったのか、信忠さまには正室がおられなかったのです。

もしかすると、武田を滅ぼしたあと、信忠さまは予定通り正室として迎えるつもりでおられたのかもしれません。そんなわけで、三法師丸さま(のちの秀信さま)、吉丸さま(のちの秀則さま)という2人の庶出の男子がおられはしましたが、幼年でもあり、すんなりはいかなかったのです。

そうなると、信長、信忠両公につぐ織田家内の序列で、信忠さまの同母弟である信雄さまという考えもあるはずでした。ところが、この信雄さまは早くに母を失い、お守り役が良くなかったのか、軽薄で、疑い深く残忍で、優れているのは歌舞音曲だけというような人物でした。

父の了解もないまま伊賀を攻めて大失敗し、織田家中でも「三介殿のされることよ」とあきれられていたといいます。本能寺の変のときにも、伊勢のあたりをうろうろしたあげく、明智軍が撤退した後になって安土城に入り、真相はよく分かりませんが、ともかく、燃やしてしまったのです。

そこで、柴田勝家さまが三男の信孝さまを推されたのです。信孝さまは信雄と同年ですが、正室に準じるような存在だった吉乃の子である信忠さま、信雄さま、それに徳川信康様の妻だった徳姫様とは同じ扱いをされず、叔父の信包さまより下の扱いだったのですが、たまたま四国攻めの準備で大坂にあり、羽柴秀吉の明智攻めに加わることができて浮上したのです。明智討伐を秀吉だけの功績にしたくない勝家様としては、信孝さまこそ総大将であるという主張で、秀吉さまの手柄を矮小化しようとしたのでしょう。

柴田さまが信孝さまを擁立しようとしたのは、織田家代々の家臣である彼にすれば、織田家の家臣という意識はあっても信長さま個人の家臣とは思っていません。まして、信長さまがどの女性を愛していたかなど関係ありません。だから、いちばんできがよい息子を跡継にすればよいと考えたのです。

清洲会議で、三法師を擁する秀吉(絵本太閤記/Wikipedia)

しかし、この勝家さまの主張にはやはり無理がございました。結局、秀吉さまが推す三法師丸君に信忠さまの跡を継がせて安土城に移し、岐阜城は信孝さまに、清洲城は信雄さまに、信長の4男で秀吉さまの養子である羽柴秀勝さまは明智光秀の旧領である丹波国、勝家さまが越前に加えて秀吉の領地である長浜城と北近江三郡、秀吉さまは山城、丹羽長秀さまが若狭に加えて近江の坂本城がある滋賀郡と高島郡、池田恒興さまは摂津の西部三郡である大坂や兵庫周辺を、それぞれ加増されました。

織田家の幼主となった三法師さまは、いったん、清洲から岐阜城に戻ったあと、安土城に移るはずでございました。ところが、信孝さまはおもり役に予定されている堀秀政らが羽柴寄りであることもあって、引き渡しを渋られたのです。

秀吉さまや信雄さまは引っ越しを早くするように催促されていましたが、越前に雪が降って柴田勢が動けなくなるのを待って、12月7日に勝家さまの甥で長浜城主だった勝豊さまを攻めました。

この報せは北ノ庄にも届きましたが、すでに雪が降り積もり始めており、勝家さまは指をくわえてみているしかなかったのでした。そして秀吉さまと信雄さまの連合軍は今度は岐阜城を囲みました。雪で閉じこめられた越前からの援軍も期待できず、信孝さまは三法師を引き渡して安土に移すとともに、たいせつなご生母と自身の娘を人質にださざるをえなかったのでございます。

そして、2月になると秀吉さまは伊勢の滝川一益さまを攻められました。一益さまは信長軍団でも軍司令官としてはもっとも有能な武将でしたが、本能寺の変のときに上野の厩橋にあって北条勢に囲まれて逃げ帰ってきたことから宿老の地位を失い、領地も旧領の伊勢長島周辺だけになっていました。

この情勢を見て動き出したのが信孝さまです。美濃国内の稲葉一鉄さまや大垣の氏家直通さまといった秀吉さまに従う大名の領地へ攻撃を加えたので、秀吉さまはいったん美濃に転進するとともに、人質にとっていた信孝さまの母を殺してしまいました。これには、当然、信雄さまも同意されていたはずですし、信雄様はのちに信孝様のお子様たちなどを皆殺しにしています。

母を人質にとられていたのに、どうして信孝さまが大胆な動きをしたかは分かりませんが、信孝さまの犠牲は大きかったのです。この母は蒲生氏郷夫人である冬姫の母でもあり、氏郷さまはこの戦いでは秀吉軍の有力武将として伊勢で滝川勢と戦っており、戦国の掟とはいえ、皮肉なことでした。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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