織田と豊臣の真実⑤ 秀吉の側室「最高の美女」京極竜子

2020年12月01日 06:00

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※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。

私の姉である茶々(淀殿ともいわれています)が、小谷城と北ノ庄城と二度の悲劇の敵であった秀吉様の側室となったことについては、嫌だったのを強引にそうされたとか、逆に姉が復讐のためにあえてそうしたとか想像力たくましくいう方もおられますが、当時としては、そんな珍しい話でもないのす。

淀君とされる肖像画『伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵/Wikipedia)

よく、秀吉さまが色好みで多くの側室を抱えられたなどといいますが、天下をお取りになるまでについては、そうでもなさそうでございます。長浜時代に南殿という側室がいて、これが秀勝さまというはじめての実子の母親だとされるくらいで、本能寺の変より前からの側室で後の世まで消息が残されている女性は一人もいないのです。大事にされている寧々さまへの配慮もあったのだと思います。

おそらく、ひとたびお手を付けてもそれきりになった者のほかに、その時々にそばにいた女性はいるのでしょうが、必要でなくなったら、暇を出したり、ほかに嫁がせたりしたのではないかと思います。

関白殿下になられたころから、秀吉さまは、名門出身の女性を側室として置かれるようになりましたが、その第一号は浅井長政の姉妹京極マリアの娘で、私たちの従姉妹に当たる竜子さまでした。そして、竜子さまは私たちの一生に様々な場面で関わりを持たれる女性でございます。

京極竜子の肖像画 「松の丸像」(誓願寺蔵/Wikipedia)

竜子さまは、たいへん美しい方で、はじめ、若狭の武田元明さまと結婚いたしました。武田家はもともと若狭守護でしたが、朝倉滅亡後に若狭に戻り、新しい若狭の国主になった丹羽長秀さまの客分のようなかたちで、大飯郡石山3000石を信長さまからいただいて暮らしていたのでございます。

ところが、この元明さまは本能寺の変のあとで明智方に与され、近江海津で丹羽長秀さまによって殺されてしまったのです。

秀吉さまが竜子さまの美貌の噂を聞いて、側室にするために夫を殺したなどと言っている人もおりますが、元明さまが殺されたのは、丹羽さまが元明さまの領地を奪うためにしたことです。

未亡人となった竜子さまがどんな経緯で秀吉さまの側室になったのか詳しくは知りませんが、丹羽さまが仲介したのだと思います。

戦国武将や江戸時代の大名の結婚を見ていくと、「継室」といった考え方がありそうです。普通には正室が亡くなったあとや離縁したあとに「後添え」として正室になる女性のことですが、正室に子ができそうもないと言ったときに、普通の側室よりは格の高い女性を入れることがあります。

たとえば、上杉景勝さまは武田信玄さまの娘である菊姫さまと結婚されていましたが、関ヶ原の戦いのあとになって大納言四辻公遠さまの姫(桂岩院)を側室として置かれました。米沢藩主二代目の定勝様の母上です。

父の公遠さまは権大納言であり、正室としてもおかしくない出自ですし、その姉妹はのちに東福門院さまと後水尾天皇の寵愛を争ったお与津御寮人(典侍)です。また、上杉家の子孫である鷹山さまが米沢に置いた御国御前は、曾祖父である上杉綱憲さまの末子の娘でした。

関白殿下はこののち、天下人となって、帝や足利将軍と同じように、身分の高い側室を集め出されたのです。

こうして集めた側室のうち、前田利家さまの娘である加賀殿や信長様の娘の三の丸殿は、秀吉さまの死後には公家と結婚しており、しかも、それは秀吉さまの遺志によるものだともいわれており、一生つなぎ止めようとは、秀吉さまも考えておられていなかったということでもあります。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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