織田と豊臣の真実⑥ 淀殿が秀吉側室となった裏事情

八幡 和郎

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※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。

伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵/Wikipedia)

姉の茶々が関白殿下の側室となったのは、信長公の四男で秀吉様の養子となっておられた於次丸秀勝様が亡くなったことと関係があります。

ここで織田家と豊臣家の関係について忘れてはならないことがあります。徳川家康さまは、織田家とは独立した存在です。現代の企業で言えば、下請けかもしれませんが、提携企業のオーナーです。

ところが、秀吉さまは織田家という会社のサラリーマンです。ですから、秀吉さまが信長さまと信忠さまが亡くなったあと後継者として天下を取られたというのは、オーナー一家の会長と社長が相次いで亡くなり、孫は子どもだというので、サラリーマン重役がとりあえず社長になったというのにたとえられるのでございます。

そして、織田信雄さまたちをさしおいて秀吉さまが天下に指図できたのも、信長さま四男の秀勝さまが自分の跡取りなのですから、いずれは、秀信(三法師)さまでなくとも、少なくとも秀勝さまに大政奉還になるということが説得力を持っていたということでもあったのです。

狩野光信画 豊臣秀吉肖像、一部(高台寺所蔵/Wikipedia)

ところが、秀勝さまが亡くなってしまうと、織田家と秀吉さまの縁がなくなってしまう。そこで、織田家の血を引く姫を迎えたいという事情もあったのだと思います。

いずれにせよ、こうした側室を置くことは、北政所さまの了解なしにはありえないことでございます。北政所さまが、たくさんの側室を迎えることに積極的に賛成されたとは思えませんが、秀吉さまのことですから政治的にも必要だと一生懸命に説得されたのだと思います。

北政所『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵/Wikipedia)

また、どんな女性を迎えるかについても、北政所さまの意見は無視できなかったはずです。とくに、私たちのように北政所さまの保護下にある女性の場合はなおさらです。それに、北政所さまは、私たちのような形で預かっている男女とは日々お話しされていましたから、本人たちの希望とか向き不向きもそれなりに考慮に入れて、縁談をまとめて行かれたのでございます。

茶々の場合も、京極竜子さまへの秀吉さまの心遣いの細やかさなどを見ていますから、少なくとも嫌ではなかったのだと私は思っています。

母であるお市に秀吉さまが懸想していたとか、お市が秀吉さまを毛嫌いしていたとかいう話が、小説などでよく出てきます。しかし、第一話で書いたように、とくに根拠のある話ではありませんし、それを前提にて秀吉さまの側室となった茶々の心の葛藤をおもしろおかしくいうのは、私たちにとっては迷惑至極な話なのでございます。

それに、茶々の立場を「側室」という言葉のイメージの暗さとともに語られるのも少し違うと思うのです。また、茶々や竜子さまと同じような第二夫人的な待遇の女性はほかにも何人もいました。茶々も最初から北政所さまに次ぐナンバーツーというわけでもなかったのが、鶴松君と秀頼さまを生んだことから特別の存在になったというのが本当のところなのではないでしょうか。

その証拠というのも変ですが、醍醐の花見のおりには、茶々と竜子さまの侍女たち同士が杯の順番で喧嘩したという話もあります。

わたくしたち姉妹のうち誰が母のお市にいちばん似ていたかといえば、残された肖像画でも分かるとおり、切れ長な目付きなどが共通するお江だと思います。茶々などは、もちろん、母の面影もありますが、むしろ、父の長政の方に似たように思うのです。

お江(崇源院像:京都養源院所蔵/Wikipedia)

茶々が秀吉さまの側室となった時期は正確には覚えてませんが、天正一四年(1586年)に於次丸(秀勝)さまが丹波亀山で亡くなってからしばらくしてのことだったと思います。