豊臣と徳川の真実② 前田利家と家康の真剣勝負

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、を元に、京極初子の回想記の形を取っています。今回は『本当は間違いばかりの「戦国史の常識」』 (SB新書)も採り入れています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。

前田利家が家康より優位だった理由

前田利家像(個人所蔵品/Wikipedia)

太閤殿下の亡くなった時点では、前田利家さまのほうが、家康さまより優勢だったように記憶します。

なにしろ利家さまは大坂城で秀頼君のお守り役であり、北政所さまや茶々と一緒にいるのです。しかも、信長さまの家臣だった大名や太閤殿下が取り立てられた武将たちとは旧知のあいだがらです。まつ様も奥方たちに強い影響力をもっていました。

ところが、家康さまは織田家でも豊臣家でもなく外様です。そこで、家康さまは朝鮮から帰った武将たちなどに懇ろに接するように心がけられました。彼らは利家さまにも三成らへの不満は言ったでしょうが、利家さまは、「お前たちの気持ちは分かるが、太閤殿下はあの者を信頼されて差配を任したのだからしかたないだろう。口は悪いわりには悪い男ではない」とでもおっしゃったのではないしょうか。

そんなときに家康さまが「武辺の者としてはもっともなことよのう。三成はすぐに証拠を示せなどというが、戦場ではなぜどうしたなどといちいち記録などとるものではないわ」などとおっしゃれば、気持ちはそちらになびきます。

 しかも、三成さまが家康さまを襲撃するのではないかなどと言う噂が頻繁に流れました。そんな計画が本当にあったのかどうかは分かりません。ただ、用心深い家康さまが本気で心配されていたのは事実でした。伏見の家康さまの屋敷が三成さまの屋敷の下にあって銃撃されやすいなどというのも心配の種だったといいます。

そこで、家康さまは伊達政宗さま、蜂須賀家政さま、福島正則さまといった大名たちとの縁組みを始めます。これは、太閤殿下から禁じられていたことなのですが、平気です。 これを聞かれた利家さまたちは激怒され、家康さま以外の四人の大老と五奉行の連名で詰問したので、家康さまは「手続きをしていないとは、うっかりしておったのう。取りやめにするのでご容赦を」といって、縁組みはなかったことにするとはぐらかして、とりあえず、謝られたかたちになりました。

徳川家康肖像画(狩野探幽作/大阪城天守閣所蔵/Wikipedia)

このころ、利家さまは場合によっては、家康さまを討とうとされたようです。しかし、伏見にいた大名たちが警護の兵を出したりしたので、利家さまは細川忠興さまらの仲立ちで、2月29日に伏見に家康さまをお訪ねになり、差し違える覚悟で家康さまに諫言されたのですが、家康さまはこの挑発に乗らずやり過ごしました。

そして、3月11日には家康さまが大坂の利家さまをお訪ねになられましたが、このときには、利家さまは見た目にも長くなさそうでした。

そして、このときに、利家さまは「肥前守(利長)のことをよろしく頼む」と仰ったようです。これをもって家康さまの天下を認められたようにいう人もいます。

しかし、利家さまはこのときに家康さまを場合によっては刺す覚悟だったといいますし、自分の死後も三年間は大坂にいるように利長さまに仰ったのですから、利長さまを自分の後継者として自分と同じように尊重するようにという趣旨だったと思います。

利家さまが亡くなったのは閏3月3日のことです。ところが、その翌日にとんでもない事件が起こりました。加藤清政さま、福島正則さま、浅野幸長さま、蜂須賀家政さま、黒田長政さま、細川忠興さま、藤堂高虎さまの七人が大坂で三成さまを襲撃したのです。三成さまは佐竹義宣さまに守られて伏見に逃げ、城内の自分の屋敷に逃げ込みました。

このとき、家康さまの屋敷に大胆にも保護を求めたというのは事実でありませんが、伏見の最大実力者は家康さまですから、よく似たものではあります。

豊臣恩顧の主要大名がこともあろうに、秀吉さまが政務の要とされた三成さまを襲ったのですから、誰もが困り果てました。毛利輝元さまや北政所さまも仲裁に入られたのですが、七人の方も強硬です。結局、三成さまをそのまま守るのは無理だということになって、佐和山に隠退させることになりました。

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