豊臣と徳川の真実③ 前田利長は自殺だったのか

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、を元に、京極初子の回想記の形を取っています。今回は『本当は間違いばかりの「戦国史の常識」』 (SB新書)も採り入れています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。

金沢城(thanyarat07/iStock)

大坂冬の陣の年の5月に、前田利長さまが隠居所の越中の高岡で亡くなられました。あとで説明するように、不用意に大坂を離れて金沢に帰国したところを家康さまにつけ込まれて、母であるまつさまを人質に取られ、秀頼さまのお守り役の使命を果たせなくなった利長さまですが、正式に五大老やお守り役でなくなったわけではありません。

ですから、大坂方からいざというときには味方してくれるだろうかと聞かれたときには、羽柴肥前守(利長)としては味方するが、跡を譲った松平筑前守(利常)には徳川の娘婿として別の判断があるのではなどと回答されたようです。そして、東西開戦になれば大坂方につかねばならないと思い、わざと死期を早められたとも噂されています。

ただ、心残りは誰よりも大事な母のまつさまに再会できなかったことでしょう。まつさまが、利常さまのご母堂と引き替えに金沢に戻ったのは、利長さまの死後で、この途上に、まつさまは利長さまの居城であった高岡を訪れてこの不肖の息子を偲んでいます。

また、加賀にはキリシタン大名の高山右近さまが領地を放棄されたあと寄寓されていたのですが、もう少しあとの10月にルソンに向けて海外追放されたのでございます。

利家さまが亡くなったあとは、秀吉さまが決められたように利家さま嫡男の利長さまが大老、そして秀頼さまのお傅役となられました。ところが、この利長さまの軽率な行動が豊臣家にとっては命取りになってしまいます。

利家さまが亡くなられて、加賀では家臣たちの対立もいろいろあり、領国を治める上で利家さま、利長さまの長い不在が重荷になっていましたから、しきりに帰国を求めます。しかも、利家さまの遺骸を金沢に送り返してからそのままということもありました。

利家さまは自分の死んだあと3年は、どんなことがあっても、秀頼さまのもとを離れるなと遺言されていたのにもかかわらず、魔が差したというか、家康さまの周到な工作もあったのでしょうが、利長さまは8月に金沢に戻ってしまわれたのです!

そのあいだに、いまも謎といわれる事件が起こります。奉行の増田長盛さまと長束政家さまが、利長さま、浅野長政さま、大野治長さまが家康さまの暗殺を企てているという密告を家康さまにしたのです。

帰国中の利長さまがそんな企てをしようとされるというのも不自然なのですが、利家さまの生前にそんな暗殺計画があったことを蒸し返したのか、増田、長束が浅野長政さまの失脚を狙ったのか、あるいは、家康さまと利長さまを離反させて利長さまを反徳川で立たそうとしたものかなどといろいろ想像は出来ますが、不可思議な事件でございました。

家康さまはここぞとばかりに利長さまを糾弾させます。利長さまはいそいで金沢城の修築をしたりして戦う準備もされます。百間堀という立派な堀が金沢にはありますが、これは、このときにこのころ前田家の客分だったキリシタン大名の高山右近さまが作られたものだそうです。(地図は、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」 (光文社知恵の森文庫より)

しかし、利長さまにとって誤算だったのは、母親のまつさまや妻で信長さまのご息女である永姫が大坂にあって事実上の人質のようになったことです。

結局、利長さまは母のまつさまを江戸に移すという条件をのまれて屈服されました。このとき、まつさまは「お家の存続が大事だから私の身のことはどうなっても気にするな」と利長さまにおっしゃったのですが、これは、前田家にとってそれがいいなら反徳川で立ち上がって、結果として、自分が殺されても気にするなという意味のはずでした。

しかし、母思いの利長さまはこのあと身動きがとれず、結局は前田家はなんとか続いたものの、利長さまには子どもがなく、同じくまつさまの子である利政さまは関ヶ原の戦いの時に西軍寄りの立場をとられたので改易されました。

庶弟の利常さまが秀忠とお江の娘である珠姫と結婚して跡を継がれたので、まつさまの血脈は前田家に伝えられないことになってしまったのは残念です。利政さまは京都に隠棲されましたが、大坂夏の陣のあとになってまつ様が京都に行くことを幕府が許可し、10数年ぶりの感激の対面を利政様とされています。

この年には、秀吉さまに後陽成天皇から「豊国大明神」の神号が下賜され、壮麗な豊国神社が建設されることになりました。

三井寺の金堂(MasaoTaira/iStock)

また、わたくしが住んでいた大津城に近い園城寺(三井寺)には、北政所さまの寄進で壮大な金堂が完成いたしました。桃山時代の仏教建築のなかでも傑作のひとつで、浅草寺の金堂もこれを下敷きにして設計したと聞いております。同じ園城寺の勧学院や光浄院という塔頭に美しい客殿が完成したのもこのころのことでございます。

このあたりは、私たちが生活していた御殿にたいへん近いものと思っていただいても良いと思います。

「豊臣と徳川の真実① 秀吉が死んで家康が最初に何をしたか」はこちら
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