豊臣と徳川の真実⑦ 石田三成はなぜ負けたのか

2020年12月23日 06:00

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、『本当は間違いばかりの「戦国史の常識」』 (SB新書)を元に、京極初子の回想記の形を取っています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。

関ケ原といえば、やはり石田三成さまのことをお話ししなければならないと思います。三成さまは、浅井や京極の領地だった長浜市石田の地侍の子です。

石田三成像(東京大学史料編纂所所蔵/Wikipedia)

太閤殿下が長浜城主になられて、領内を回っておられるときに、たまたま、観音寺という寺院で修業していた三成さまに会われたということです。お茶を出すのに、ぬるい茶、もう少し温めたお茶、熱いお茶という出し方をして気に入られたと言われています。

本当かどうかは定かでありませんが、聡明で機転が利く子供だったと北政所さまも申されていました。

まことに清廉で公平無私な人で、すばらしい構想力にあふれた政治家でした。彼のことを自身の野望のために秀次を失脚させたり、清正を陥れようとしたり、氏郷を毒殺したりしたなどという伝説がありますが、江戸時代に入ってからいわれていることで、根も葉もない話です。

それどころか、秀次事件で失脚した家老前野長康様の一族や蒲生家の旧家臣を多く家臣にされたほどです。もし、三成さまが主君を殺したなどと言う噂があればあり得ないことではないでしょうか。

朝鮮出兵は信長・秀吉政権にとっては予定の行動ですから、三成さまが勧めたというのもおかしな話です。淀殿と親しく、北政所に近い尾張派の武将と対立したというのも、事実でないことは昨日お話しした通りです。

むしろ、私たち姉妹にとっては、浅井や京極の家臣だったくせに、私たちに冷たいという気分はなくもありませんでした。三成さまとしては、そういう私情は入れたくないので、あえて、愛想がなかったのかもしれません。

太閤殿下が自分より知恵があると気に入っておられたのは間違いないのですが、ただ、幕末のヒーローたちに例えれば、西郷隆盛のようなリーダーとしてのカリスマ性はなかったし、大村益次郎のような軍事的センスも欠如していたのは確かです。

確かに、関ヶ原での三成さまは、日本を二分するような大兵力を集める「企て」には成功しました。

しかし、そのあと正々堂々とオーソドックスな横綱相撲をやろうとしたのが間違っていました。織田信長公も桶狭間でだけは奇襲をされましたが、以後は、事前の政治工作と周到な準備で相手を圧倒するという戦いしかされていません。

太閤殿下も伸るか反るかの大勝負など一度もされていません。されたとしたら、本当かどうかも分からない墨俣築城くらいです。

まして、長浜城主としての秀吉さまに見いだされて、その横綱相撲を見て育ってきた三成さまは天下人秀吉さまの申し子でした。

その点が、今川との東三河争奪戦、武田との三方原の戦い、本能寺のあとの北条との対決、小牧長久手の戦いと何度も相手より少数の兵を率いての修羅場を潜り、それに勝ってきた家康公とまったく違ったのです。関ヶ原で、西軍有利であったにもかかわらず、三成さまが敗けた原因はひたすらそこにありました。

三成さまは現代風に言えば、中小企業が成長して初めて採用した大卒社員のようなものです。しかも、その出来が抜群によかったわけです。ただ、それまでの社員は営業現場で実績を上げたのに、三成さまが得意とするのは営業体制全体の管理や財務、人事、渉外といった分野でした。

そうした能力は民政だけでなく軍事面でもめざましい成果を上げられたのですが、現場のセールスマンたちにはその値打ちが理解できませんでした。

そうした功労で、華々しい武功がなく、また、秀吉さまとの血縁もないのに、福島、加藤、浅野といった親戚筋や、蜂須賀のような老臣と同等の領地を得たから嫉まれたわけです。

しかも、厳しい軍律を求めたり、軍監の報告による管理をしようとして加藤清正さまらと対立されました。総務部長が領収書のない支出や、違法行為を伴う売り込みを止めさせようとして現場の古手営業マンから嫌われたといったようなものです。

それでも、太閤殿下の生前は問題なかったし、その死後はそれまでは疎遠だった利家さまと共同戦線を張ってなんとかやってこられました。しかし、利家さまが死んだあとは、守れる者がいなかったのです。

そして、佐和山に隠退する羽目になりましたが、あらん限りの知恵を出して東軍を上回る勢力を確保されました。

しかし、作戦は慎重すぎて切れが悪かったのです。たとえば、大垣城で島津義弘さまが主張したような夜襲を家康公にかけるといった作戦はすべて否定されたのです。

そうなると、家康公は逃げも隠れもしない横綱相撲しかとらないのだから三成さまがどう出るかが予想ができました。秀吉軍なら、それでも圧倒的な力の差で敵をねじ伏せられたでしょうが、今度はそうはいかなかったのです。

関ヶ原の決戦で西軍は大敗し、三成さまは戦場を離脱したものの、伊吹山中で田中吉政さまの兵に捕らえられ、京都六条河原で斬首されてしまいました。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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