豊臣と徳川の真実⑧ 西軍の勝利なら大名配置は?

2020年12月24日 06:00

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、「47都道府県の関ヶ原 西軍が勝っていたら日本はどうなった 」(講談社+α新書)などを元に、京極初子の回想記の形を取っています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。

京極高次像(徳源院所蔵/Wikipedia)

もし、関ケ原で三成さまたちが勝っていたらどうなっていただろうと竜子様と話したことがあります。私たち京極家は西軍を裏切って東軍について大津城に籠城し、最後は北政所様の仲介で高次は高野山に身を隠しておりましたが、茶々が差配して近江のどこかで数万石くらいは残してもらえたような気がします。京極家ゆかりの長浜か、高島郡の大溝あたりかもしれません。

西軍はいくらでも勝つチャンスがありました。なにより私の夫の高次が裏切らなかったらと言うことがあるのですが、上杉軍が西上する家康を背後から襲う、織田秀信さまが野戦などせずに岐阜城に籠城する、大津城があと2、3日早く落城する、西軍主力部隊が大垣城から夜討ちを家康公にかける、毛利輝元さまが大坂城から出陣する、といった可能性のうちどれかひとつが実現していただけで、勝敗はどうなったか分からないのです。

 しかし、そうした戦前の状況がすべてそのままでも、関ヶ原本戦で小早川秀秋さまが裏切らなければ、西軍が惨敗して四散するようなことにはならなかったはずです。

小早川秀秋像(高台寺蔵/Wikipedia)

それでは、もし、小早川さまが東軍からの威嚇射撃を受けて、寝返るのでなく、東軍に襲いかかったら、戦いとそののちの体制はどうなったかを、考えてみましょう。

もし、松尾山の小早川さまが西軍として山を駆け下りたら、一進一退だった戦況は一気に西軍有利になり、まず、島津さまが戦闘に加わり、南宮山の毛利、長曽我部、長束さまなども意を決して行動を起こしたでしょう。

そうなったら、東軍の惨敗になりましたし、挟み撃ちに合った家康公も戦場を離脱できず討ち死にした可能性も強いのです。中山道を西へ向かった秀忠軍は健在でしたが、戦いに遅れそうになった秀忠さまは少人数で木曽路にあったので落ち武者狩りにあいかねなかったでしょう。

東軍から裏切りも出たでしょうし、茶々や秀頼さま、さらには、朝廷も家康追討を命じたでしょう。そういうなかでは、家康公が生き残ったとしても関東に引き返さざるを得なかったでしょう。

それを受けて、上杉さまや佐竹さまもいよいよ本格的に関東に攻め入ったでしょうから、そのときに、直江兼続さまが伊達、最上、堀さまなどに取引を持ちかけられたと思います。

上杉さまとすれば、会津やその周辺を確保するより、関東で徳川の地位に取って代わりたいのと、越後を回復することが好ましいと思っていました。そうであれば、伊達に先祖伝来の伊達・信夫両郡や政宗が生まれた米沢を返したところで上杉さまは痛くもかゆくもありません。

最上には庄内という餌もあります。堀さまは越後に拘泥する理由はなく、どこかで応分の代替地があれば十分です。越前への復帰など歓迎するでしょうし、関東のどこかでもよいわけです。

となれば、直江さまが彼らに西軍に寝返って関東攻撃に加わることを説得することは、十分に可能だったと思います。

佐竹さまは養子を送り込んでいた芦名に会津を回復させることも含めて、福島県南部と常陸・下野での主導権が欲しいところでした。となると、上杉さまは越後、佐渡に、山内上杉の本拠だった上野、家康公の居城だった武蔵、それに伝統的な関東の中心である相模あたりを狙ったのではないでしょうか。

つまり、徳川領のうち、下総、上総、伊豆を除き、代わりに越後、佐渡を加えたことになります。小田原など直江さま自身の居城にするのにふさわしかったのでないでしょうか。

三成さまとしても、徳川を滅亡させるまで追い込むのは抵抗が予想されますから、北政所や淀殿を窓口に、三河・遠江・駿河への帰還で手を打つ交渉が可能だったのでないでしょうか。その三か国なのか、二か国か一か国かは、その時の状況次第ですが、旧領に縁者が多く残っているわけだし、三河武士にとって故郷に帰るのはそう悪い話ではありません。もちろん、家康公には隠居してもらい秀忠さまが当主になってもらわないと困ります。

織田秀信さまはいったん降伏して高野山へ向かったのですから、最初の約束通り、濃尾二国というわけにはいかないでしょうが、福島正則さまがいなくなったあとの清洲城くらいはもらえたでしょう。

前田家は、越中など少し削られたかもしれませんが、利長さまが隠居して利政さまが当主になるあたりで、手が打たれたでしょう。丹羽長重さまは北ノ庄に復帰するか、房総半島など東国にしかるべき領土を得たのでないでしょうか。

小早川秀秋さまは、筑前に加え播磨、それに関白の地位が約束だったから、その通りなったかも知れませんが、筑前と播磨という互いに離れた領地は不自然なので、むしろ木下一族ともども、播磨、丹波、但馬、丹後あたりを押さえることになったのではないでしょうか。それは、北政所様が大歓迎するところです。また、なまじ小早川であるより、縁組みを解消して羽柴になられたのでないでしょうか。秀頼さまが子を残さないまま死ねば、秀秋さまが後継者としては最有力になるからです。

毛利家では豊前や筑前が欲しいところだったでしょう。とくに毛利秀元様は筑前を治めるのにふさわしい方です。もしかすると、小早川家を秀元さまが嗣いだかも知れません。吉川広家さまは、毛利家内での発言力は弱めたでしょうし、場合によっては東国にでも移されて毛利家での地位は失ったと思われます。

宇喜多秀家さまは、備前・美作に加えて阿波、讃岐でも取りたいところです。長曽我部さまには伊予の南部あたりが狙いめでしょう。

島津さまは日向北部に肥後南部が欲しいところだし、大友も豊後のかなりの部分を回復したでしょう。小西行長さまは島津との関係で肥後南部はどうなったか分かりませんが、キリシタンが多く南蛮船の来航も多く、対馬の宗氏と連携できる肥前の西部や北部は欲しいところです。いずれにしても、キリシタン大名の指導者として確固たる地位を占めたでしょう。鍋島さまが取れるとしたら筑後でしょう。

いずれにしても、立花も含めて西国では西軍に属した大名が多いだけに、それぞれが倍増に近いことになれば、総計が合わず、いくつかの大名を東国に移さざるを得なかったでしょう。たとえば、大友氏が復活するにせよ、ルーツが関東なのだからそちらでとか、キリシタンでない鍋島氏を九州外に移すとかいうこともあったのではないでしょうか。龍造寺家とのややこしい関係を整理するためにも、その方が鍋島にとってもよかったかもしません。

石田三成さまは二倍くらいには加増は受けたでしょうが、自分で大きすぎる領地を得ることは自重したのでないででしょうか。そのかわりに、島左近ら自分の家臣を独立の大名とすることを選んだような気がします。大津城にでも入って京都を掌握されたのでないかと思います。

あとは、豊臣系の大名で西軍についたものは、パズルで空いた国にはめ込まれるでしょう。東軍に属した豊臣系大名も早々に投降して東軍残党掃討に貢献すれば小大名として残れたはずです。

全体的な構図は、東国は上杉、佐竹という、伝統的に畿内と友好関係にある二つの大名が、石田三成さまの進める領国経営近代化路線の指導に沿って治めるようになったでしょう。

一方、西国は、毛利氏が大陸との関係についてもかなり強い指導力を持つ体制になったのではないでしょうか。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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