豊臣と徳川の真実⑪ 日本中で大築城ブーム起きる

2020年12月27日 06:00

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」 (光文社知恵の森文庫)などを元に、京極初子の回想記の形を取っています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。

京極高次像(徳源院所蔵/Wikipedia)

大津城の落城で、京極高次は高野山に身を寄せておりましたが、高次が大津城で一週間もねばったことが勝因のひとつだったというので、家康さまは若狭一国をやろうと弟の高知さまにいわれました。高知さまにはもう少し大きい隣の丹後一国ですから、少し差をつけられたのです。

高次に40万石やろうかなどと家康さまがおっしゃったという説もありますが、家康さまは最終的に開城した者に、そんな気前のいいことをしてくれるような人ではありません。

ほどほどに頑張れば城を明け渡しても褒美を与えるということになれば、誰も徹底的に抵抗などしなくなります。討ち死にするまで頑張れば、報酬を子孫にやるというのが家康流です。伏見城の留守役として奮戦して死んだ鳥居元忠さまの嫡子忠政さまには、磐城平で10万石という破格の加増が与えられて、しっかり評価がされたのです。鳥居家はその後、最上家改易のあと山形に22万石をもらいました。

高次は、開城したのは武人として恥だから受けないなどと言っていましたが、このあたりは、儀式のようなものす。家来たちのこともありますから、結局は家康さまの提案をお受けして、若狭へ移ることになりました。

若狭は竜子さまの夫だった武田元明さまが守護だったところですし、湖北や越前からも近く、親しみのある土地で、私もすぐに好きになりました。湿り気のある冷気は、あの小谷城や北ノ庄城の記憶を甦らせました。辛い記憶も思い出されますが、なにか亡き父や母に近づけた気もいたしました。

はじめは、北政所さまの甥である木下勝俊さまの居城で、その昔は武田元明さまもおられた後瀬山城に入りましたが、やがて、海岸寄りに新しい城を築くことになりました。琵琶湖と日本海の違いはありますが、大津城に似た水城(海城)です。これが、小浜城です。

この年にわたくしたち夫婦は、高次の母であるマリアのすすめでキリシタンの洗礼を受けました。わたくしの舅と姑である京極高吉・マリア夫妻がオルガンティノ神父の導きで入信したのは、安土でのことでしたが、その数日後に高吉が亡くなったので、「仏罰だ」とかずいぶんといわれたようです。

しかし、マリアはそれにめげず、子どもたちにも入信を勧めましたので、親孝行な兄弟姉妹は竜子を除いてこれを受け入れ、高次の妻である私も改宗することになったというわけです。

姑で浅井長政の姉妹、つまり叔母であるマリアは、高知さまの領地である丹後の東部で若狭国境に近い国泉源寺村(舞鶴市)に住み、此御堂を建てて布教を行いました。京都に隠棲することになった竜子さまのことは気がかりだったでしょうが、同じ娘であるマグダレーナも近くの近江の朽木にいましたから、母にとってはとても幸せな時代でした。

マリアがこのように布教活動をしていることは、高次や高知にとって幕府の目が心配だったでしょうが、とてもこの強い母に意見できるような根性はありませんでした。

関ヶ原の翌年の正月は、家康さまも賀詞を述べに大坂城に来られ、三月には秀頼さまが正三位権大納言となられたこともあり、茶々もなんとなく家康さまの配慮で豊臣の天下も安泰な気がしたのです。

京極家は小浜城へ

ところで、私たちも小浜城を築いたのですが、このころは大築城ブームでした。なにしろ、朝鮮での戦のあいだは、それほど大きい工事はできませんでしたが、関ヶ原の戦いの後は、加藤清正さまのように朝鮮遠征中は事実上中断していた工事を再開するとか、私たちのように新領地に新しい城を作る、あるいは新領地で前領主の城を大幅に改造するとかいろいろでした。

ここでは、全国の県庁所在地について、どうだったかお話ししたいと思います。盛岡城は南部様が蒲生氏郷さまの指導で築かれた城ですが、関ヶ原のあとも工事は続けられました。

仙台城は関ヶ原のあと伊達政宗様の領地が南に拡張されたこともあり、平野に面して広い城下町がとれる仙台に移られました。

山形城は鳥居さまが映られたときに、最上様のお城を大改築されました。水戸城は佐竹様の居城でしたが、徳川のものになって拡張されたものです。

宇都宮城も戦国時代には宇都宮さまの城がありましたが、蒲生、奥平、本多と言った方々がだんだん充実させられました。

前橋城は上杉様の関東攻めのためのお城でしたが、家康公が関東に移られたあと酒井様が大改造されました。

金沢城は一向宗の尾山御坊を柴田勝家の甥である佐久間盛政様や前田利家・利長様が改造されました。

富山城は前田利常さまの子の利次さまが越中で10万石をもらわれたときに、はじめは百塚というところに築城される予定だったのですが、財政難もあって古い富山城を修築することに方針変更されました。

福井城は私たちのいた北の庄城の近くに結城秀康様が築かれた城です。

甲府城は武田家が滅びた後、家康様の領地に一時なり、その後、加藤光泰様や浅野長政様が城主のころから徐々に築かれたお城です。

静岡(駿府城)は、今川様の館がありましたが、それを家康様が一時、居城とされましたが、関東移封後には中村一氏様の居城となって畿内風のお城になり、さらに、家康公が隠居城として大拡張されました。

尾張の中心は、清洲城で関ヶ原の戦い後、家康公の四男である忠様もここにおられましたが、関ヶ原の戦いでの傷もあって亡くなったので、家康公の九男である義直様が城主となられるときに、家康公が加藤清正様らに命じて築かれたものです。

岐阜城は関ヶ原の戦いのときには織田秀信様が城主でしたが落城し、そのあと領主となられた奥平信昌さまは岐阜駅の南にある加納の城を修築して使われることになりました。中山道の宿場町でもありました。

津は織田信包さまもおられた安濃津城ですが、これを関ヶ原からしばらくして伊勢に入られた藤堂高虎さまが大改造されました。

津城址(MasaoTaira/iStock)

大津はいうまでもなく、関ヶ原のときの私たちの居城でしたが、戦後、東の膳所に新しい城を戸田一西さまが築かれました。関ヶ原の後に家康様が築かれた最初の城です。

和歌山は豊臣秀長様が築かれた城ですが、関ヶ原のあと入られた浅野長政様、そして徳川頼宣様が大改造されました。

鳥取は太閤殿下が兵糧攻めされたので知られる城でしたが、関ヶ原後に池田長吉さまなどが修築されました。

松江城は、関ヶ原後に入られた堀尾吉晴・忠氏の父子が築かれて尼子様の月山富田城から移られました。

松江城(SeanPavonePhoto/iStock)

岡山城は宇喜多秀家様がそれまでの石山城を少し東に移転し旭川も付け替えて築かれました。小早川秀秋様も新しい堀をられたりしています。

広島城は毛利輝元様が聚楽第に似せた城を築かれましたが、関ヶ原後に入られた福島正則様が大修築しようとされてそれが原因で改易された事件がありました。

高松は生駒親正様が黒田官兵衛さまの指導で場所を選ばれました。徳島城は蜂須賀家政さまが太閤殿下の四国攻めのあと拝領されて築城されました。高知城は関ヶ原のあと入られた山内一豊さまの築城です。

加藤嘉明様は伊予の松前城におられましたが、関ヶ原後に松山市周辺も加増され、道後温泉にあった湯築城に代えて築城されました。

筑前では小早川隆景様は福岡市西部の名島城を築かれましたが、関ヶ原後に入られた黒田長政様が博多の西側の福岡城を築かれました。古代の迎賓館・鴻臚館があったところです。

佐賀は竜造寺氏の城を鍋島様が充実されました。熊本城は佐々成政様も居城にされていましたが、加藤清正様が現在見るような要害堅固の極みのような城にされました。

熊本城(SeanPavonePhoto/iStock)

大分(府内)城は石田三成様の娘婿である福原直高様が大友氏の居館の海岸寄りのところに築かれました。鹿児島城はすでに紹介しましたが、島津忠恒様が関ヶ原のあとに市内の別の場所からえれたものです。

こうして見ますと、日本の主要都市のほとんどが、太閤殿下の家来たちによって開かれていることがわかります。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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