豊臣と徳川の真実⑭ 家康が焦って起こした大坂冬の陣

八幡 和郎

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」 (光文社知恵の森文庫)などを元に、京極初子の回想記の形を取っています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。

千姫姿絵(弘経寺蔵/Wikipedia)

大坂城では千姫がようやく女らしくなってこられました。この年に侍女が、鬢そろえを行う千姫を、秀頼さまが手伝っておられるのを目撃しています。もしかすると、千姫さまと秀頼さまが名実ともに夫婦になられたのがこのときなのかもしれません。

少し遅いようにも思いますが、そのあたりは、千姫の発育が少しゆっくりしていたのかもしれません。ともかく、茶々にしてみれば千姫が豊臣家の跡取りを産めば、徳川家との交渉もたいへんやりやすくなり、いわば妥協の余地も広がるわけですから、一生懸命、子作りに励ませたことは間違いないと思います。

家康さまがのちに豊臣家をいささかひどいやり方で滅亡に追いやったことは、いかに戦国でもという印象ですが、それは、家康さまの極度に臆病な性格のなせるわざでしたし、まさか女たちに穏やかに接する老人がそこまではと、私たち三姉妹も騙されたのでございます。

しかし、秀頼さまを攻撃する口実など見つかりません。ちょうど、方広寺大仏殿の再建工事が終わり大仏開眼供養が近づいていました。

そんなとき、同時に完成した梵鐘の銘が問題になったのでございます。家康さま側近で南禅寺の金地院崇伝らは、「国家安康」とあるのを家康の諱を分断したもので、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願うものだとし、林羅山は「右僕射源朝臣家康」は、右僕射(右大臣)である家康さまを射るものといいがかりをつけたのです。このころ、家康さまはしきりと御用学者の育成を図っておられたのですが、その成果だったのです。

駿府に弁解にいったが成果なく帰ってきた片桐且元さまは、大坂城を出るか、茶々か人質になるか、秀頼さまが駿府と江戸に下るしかないといいました。

且元さまの意見というかたちですが、本多正純さまあたりから示唆されたのでしょう。大坂城二の丸あたりに徳川から監視役と軍勢を入れさせろとか、堅固な大坂城を出るにせよ伊勢や大和でなく伏見など豊臣の面子が立ちやすいところに移れとかもありますし、秀頼さまが京都で秀忠さまに挨拶するとか、もう少し両方が満足できる知恵がありそうなものですが、あえて、大坂方が呑めない条件にこだわったのが、家康さまの嫌らしいところです。

このころになると大坂城から逃げ出す者が出始めました。そのなかには、あの織田信雄さまもいました。信雄さまについては、総大将になるのではなどという風評もありましたが、それが実現せずにふて腐れたのか、それとも、豊臣の家臣に甘んじて生き延びた自分の経験から屈服して生きながらえた方が勝ちと助言したものの入れられなかったのか、よく分かりません。

しかし、このいささかみっともない判断のおかげで、子孫は大和宇陀(のちに丹波柏原)と上野小幡(のちに出羽天童)というふたつの藩の大名として生き延びましたし、本人も優雅な隠居生活を楽しみました。

片桐且元さまが逃げ出した以上は、大野治長さまが城内の主導権を取ることになり、天下の大名や浪人に助力を求めたのです。

大野治長さまの母の大蔵卿局は茶々の乳母でした。治長も秀吉さまの馬廻りとして取り立てられましたが、美丈夫で有能な人物でした。

人材不足と茶々に信頼されたこと、バランスの取れた実務能力で、大坂の陣のころには、城内第一の実力者となりましたが、実績がないことへの反発も強く、前田利家さまの次男で嵯峨野に隠棲されていた利政さまのように、「治長の下知などには従いたくない」といって味方できないという向きも多かったようです。秀頼さまは実は治長さまの子だとかいった噂は当時もありましたが、秀吉さまがそれほど脇が甘いとはちょっと思えません。

福島正則さまが開戦を聞かれたとき、「三年遅く、三年早い」と仰ったと言います。少し前なら加藤清正さま、浅野幸長さま、池田輝政さま、前田利長さまなどが生きていたから、家康さまもそれほど乱暴なことはできなかっただろうし、もう少しあとなら家康さまが亡くなっているのではという意味です。逆にいえば、家康さまは絶妙なタイミングで勝負を賭けられた、あるいは、いまを逃したら豊臣の天下に戻りかねないと判断されたということです。

それでも、このときは、そこそこの大名が呼びかけに応じるのでないかという見通しも大名たちの間にもありました。たとえば、毛利輝元さまは一族の内藤元盛さまに佐野道可という偽名で入城させていますし、細川忠興さまの次男である興秋さまが入城したのも念のために忠興さまが差配した可能性がございます。いずれも、ほかの大名が寝返って西軍が勝ったときに存続を図るためです。

徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵/Wikipedia)

しかし、家康さまは福島正則さまらを江戸に幽閉するなど万全の体制をとりました。この危機を見て、北政所さまは大坂に向かおうとされましたが、途中で阻止されてしまいました。このころ北政所さまの元から孝蔵主さまが江戸の秀忠さまのもとに移ってもういませんでしたが、その経緯はもうひとつよくいわかりません。

孝蔵主さまは蒲生旧臣川副勝重さまの娘です。秀吉さまのもとで女奉行といってよいほどの辣腕ぶりを発揮し、秀次さまを聚楽第から連れ出して伏見へ送り出したとか、大津城の開城を勧めに登場したことを憶えておられる方も多いことと思います。

いずれにせよ、長年にわたって北政所さまの右腕だった彼女が徳川方に移ったのは不自然なのです。北政所さまと不仲になったとかいうことも可能性はないわけではないのですが、外交能力抜群の孝蔵主さまが北政所さまのもとにいると余計な動きをすることを心配した家康さまが、強引にか、好条件で釣ったのか、あるいは、東西の架け橋になってくれとかいったのかは分からないのですが、北政所さまから引き離したのです。

このために、北政所さまは隔靴掻痒だったでしょうが、大坂冬の陣や夏の陣のあいだ、まったく指をくわえて傍観するしかなかったのです。

真田幸村肖像画(上田市立博物館所蔵/Wikipedia)

 戦いそのものの詳細は、軍記物にまかせたいので書きませんが、大坂方も緒戦の海戦では敗れたものの、総構えの南に設けた真田丸で幸村さまが大活躍するなど堅塁を頼んで大健闘でございました。そこで、徳川方も食糧補給なども厳しく損害が増えそうだったことから、家康さまはいったん和平することを模索されました。

家康さまは大砲を撃ち込んだり、地下道を掘るという情報を流したりされましたが、大津城の時もそうですが、大砲を女たちがいるところに打ち込むと、心理的にもパニックになります。

後陽成上皇も広橋兼勝さまと三条西実条さまを派遣して仲裁しようとされましたが、家康さまは気遣い無用として相手にされません。そうしておいて、家康さまは織田信長さまの弟である有楽斎さまと、わたくしを城内に送り込まれました。茶々と話をしろということです。そして、こんどは、有楽斎やわたくしが大坂方というよりは、茶々の代理として加わって徳川方と交渉をすることになりました。

家康さまは、一見、大坂方にとってかなり有利な条件を受け入れられたのです。京極忠高の陣で行われた交渉で、茶々を人質としない替わりに大野治長さま、織田有楽斎さまより人質を出す、秀頼の身の安全を保証し本領を安堵する、城中の浪人などについては不問というものでございます。

さらに、本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める事も入りましたが、これは、このような和平では常識的なことでした。また、大坂方は浪人に知行を与えるために加増を願いましたが、これは虫が良すぎる話で拒否されました。

ただ、大坂方では惣堀を徳川方で埋めることは承知していましたが、二の丸を囲む外堀については自分たちで埋めるつもりでしたし、それは、完全破壊までを意味しないと考えていたのです。ところが、徳川方は大坂方の工事を手伝うと称して、外堀まで完全に埋めてしまいました。しかも、腹立たしいことに側室が生んだとはいえ私の息子であり、養女の婿である京極忠高に工事をやらせたのです。

有楽斎さまとわたくしは、家康さまに大坂方に悪いようにしないから仲介に入ってくれといわれて茶々と話し合い、茶々にもなんとか受け入れ可能な条件でまとめたつもりだったのです。

しかし、疑い深く細部を詰めるような交渉をしなかったために、家康さまに付け入る余地を与えてしまって、結果的にですが、茶々をだますことになってしまいました。あの人が良さそうな柔和な老人が隠していた牙に噛まれたような気分でした。

夏の陣が終わったあと、伊達政宗さまへの手紙で北政所さまは「なんとも申し上げようもありません」と書かれていますが、それはこうした無力感があったからです。

『豊臣と徳川の真実』は年内で終了し、新年からは「坂本龍馬の幕末日記」を連載します。

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