2020年を振り返る まあ、落ち着け

2020年もあと2日。既に様々なメディアや人が今年の振り返りをしているので飽きている人もいるだろう。個人的な振り返りは大晦日に書く。立ち止まって、いまさらだが、2020年という時代を考える。

■あえて「コロナ」を手放して考える

なんせ、新型コロナウイルスショックの年である。「新型コロナウイルスショックで世界は変わった」というテンプレ化した表現を1年を通じて(厳密には2020年の2月くらいから)よく見かけた。著名人も、庶民もこの言葉をつかう。普段の仕事でも「こういう時代なんで」という言葉をよく聞いた。講演などの仕事のキャンセル通知とセットでくるので、無力感も加速するのだけど。

(写真AC:編集部)

(写真AC:編集部)

感染症としても、経済的な被害も甚大であり。それが新型コロナウイルスショックに起因することは間違いない。自分自身が感染した人も、家族を亡くした人もいる。学業など様々なことを諦めなくてはならなかった人だっている。店を畳んだ人がいる。イベント開催を諦めた人がいる。「貯金を崩す」ならぬ「貯金が崩れる」状態が続いている人がいる。「自己責任」という言葉で片付けていいはずがない。

もっとも、立ち止まって考えたいのは、コロナの被害が大きかった人は、もともと弱い、不安定な立場の人ではなかったか(何かにつけて揚げ足をとる人、攻撃してくる人がいるので、何度も書くが、それを自己責任と言っているわけではない)。コロナの前も後も、非正規雇用、フリーランスはもともと安定しているとは言い難い働き方だった。エッセンシャルワーカーは、今も昔も、エッセンシャルワーカーだ。音楽、演劇など才能で食べる仕事は必ずしも報われなかったし、私達はいちいち楽しみつつ、リスペクトしている風でいて、払える範囲のお金しか払ってこなかった。

新型コロナウイルスショックは、昔も今も起こっている問題を可視化する。そして、体力的にも経済的にも弱い立場の人に容赦なく襲いかかってきた。コロナ倒産にしても、その前から厳しい状況だった企業もあり。

一方、誤解を呼びそうだが(何かにつけて揚げ足をとる人、攻撃してくる人がいるので、何度も書くが、新型コロナウイルスショックを肯定しているわけではない)、新型コロナウイルスが世の中を前に進めた側面もある。テレワークの普及、様々な手続きの簡略化などがそうだ。

もっとも、それによってやってきたのは、ユートピアなのか、ディストピアなのか。常に立ち止まって考えたい。

■「密」とは何だったのだろう

2020年の「ユーキャン新語・流行語大賞」の年間大賞は「3密」だった。「3密」という言葉が定着し、そもそもどんな密だったのか忘れている人もいるだろう。「密閉、密集、密接」の略だ。これを避けるようにと呼びかけられた。

「新しい生活様式」なる言葉は、単なる我慢の押し付けに聞こえてしまうこともあるのだが。それでも、たしかに1年前に比べると変化はあり。1年前の今頃は、冬でも誰もがマスクをしているわけではなかった。お店でアルコール消毒をする機会などなかった。何より、駅や店などで人が大勢いると「こわい」と感じるようになった。

もっとも、1年前の今頃は、この「3密」は当たり前に自分の身の回りにあった。そして、快適、快楽、快感の「3快」ともつながっていたのではないか。小さなBARやCAFEで過ごす時間、ぎゅうぎゅう詰めのライブハウス、人が大勢いて活気のある居酒屋などを楽しんでいたはずだ。そこには「熱」があったし、にぎやかだった。

この「3密」は価値を生み出していた。エンタメの世界では、ライブ市場が拡大していたし、やり玉にあがってしまった「接待を伴う飲食店」以外でも、私たちは様々な店でホスピタリティあふれる接客を受けていた。

「密」を使った単語は、もちろん密閉、密集、密接だけではない。親密も秘密も密だ。

さて「密」はどこにいったのか。「離れていてもつながっている」はJ-POPで描かれる恋愛空間でたまに登場する光景であり。コミュニケーションツールのうたい文句でもある。オンラインでも「密」は可能だけれども。もっとも、この「密」は「密」だったのかと考えたりする。

「ずっとつながっていようね」と言った友達のうち、ちゃんと続く友達は珍しい。ツーカーの仲の取引先もだ。私達にとって「密」とは何だったのだろうか。

■「正しい」を考える

ちょうど1年前に、銀座で仲間と語り合ったこと。「正しい」とは何か、と。フェイクニュースが世界的な問題となり。メディアに関するいくつかの不祥事の報道もあり。「正しい」情報を知りたいと誰もが考える。

しかし、その「正しい」とは果たして「正確」のことだろうか。いや、「情報」に関する「正しい」は「正確」のはずだけれども。いつの間にか「正義」の話をしている。

「事実」と「意見」は異なる。しかし、「事実」が明らかにならないこともあってか、明らかにする努力も足りないからか、いつの間にか「意見」のやり取りに終始してしまう。

いつの間にか「情報」が「正しい」か否かではなく、「信じる」か否かの話をしている。こうなると、思想信条、スタンスの話になり。事実に基づいた話にならない。

かくして、人と人とはときに必要以上につながったり、離れたりする。「分断」「断絶」と言われる現象の一事例である。

これもまた、新型コロナウイルスショック前から起こっていた現象なのだけど。未知の脅威である新型コロナウイルスショックにより、人々はそのスタンスが可視化されていく。新型コロナウイルスの本質の一つは、物理的にも、心理的にも人と人との距離を離すことなのだ。

■底が抜け、タガが外れた社会をどう生きるか

2020年といえば、三島由紀夫だ。没後50年である。彼の檄文をたまに読み返すことにしている。自決していなくても、生きているかどうか怪しい年齢ではあるけれど。今の日本は彼にとってどう見えるだろう。矛盾の糊塗、偽善の連鎖そのものではないか。魂の空白化もここに極まれりといった状況ではないだろうか。

なんせ、公文書を改ざんする国である。事実は常にねじ曲げられる。政治家は国民の知りたい想いにこたえない。もう何もかもやりたい放題だ。新型コロナウイルスショックという未曾有の事態に直面し、それを言い訳にさらなる暴走の連鎖が起こっていないか。

底はとっくに抜けており。タガも外れている。

詭弁の連鎖だ。

一方で、熱弁に流されても困る。

こんな時代をどう生きるか。もちろん、きれいごとだけでは生きることができないのだけども。

最後まで知性と、理性を信じること。人間らしい感情を忘れないこと。先人に学ぶこと。立ち止まって考えること。孤立、孤独をおそれないこと。謙虚に耳を傾けること。熱狂しないこと。落ち着いて考えること。

まあ、落ち着こう。

自分自身に語りかけてみる。

備忘録的に。


編集部より:この記事は千葉商科大学准教授、常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2020年12月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。