龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華

2021年01月06日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。

土佐の郷士は、長宗我部旧臣だと説明されることが多いが、そんな単純なものではない。これは大事なことなので、しっかり説明しておきたいのだが、その前提として、山内家が入国するまでの土佐の歴史から説明しなければなるまい。

細川頼之(Wikipedia)

室町時代の四国は、細川氏の王国であった。細川氏の先祖は、足利一族の義季が三河国額田郡細川(岡崎市)に住んだことに始まる。。

足利一族のなかで細川氏はそれほどの名門ではなかったが、室町幕府創成期に活躍する人材を多く出して、四国など西日本で合計8カ国の守護を占めた。とくに、阿波守護だった頼之は四国のほぼ全域をまかされただけでなく、2代将軍義詮の遺命によって管領となり、12年にもわたって幼い3代将軍義満を補佐し、幕府の基礎を創った第一の功労者であった。

だが、諸大名の反発が強くなり、成人した義満によって、一時、四国へ追放され讃岐の宇多津守護所に住んだ。細川護煕・元首相が好んで引用して人口にも膾炙している「人生50年、功なきを恥ず」という人生訓は、京都から追放される時に、頼之が残した言葉だ。

やがて幕閣に復帰した頼之のあと細川家は、いくつもの分家に分かれたが、とくに重要なのは、京兆家(上屋敷)と阿波家(下屋敷)、それに典厩家、和泉家(細川幽斎はこの系統の出だ)だった。本家が京兆家と呼ばれたのは、右京大夫という官職の唐風名称に由来する。四国では阿波の守護は下屋敷がつとめたが、讃岐と土佐は京兆家が押さえた。

といっても、室町時代は守護は京都在住が原則だったので、讃岐にも土佐にも守護代が派遣された。土豪たちは、京都などで細川氏が軍事行動を起こす時には助っ人として駆けつけた。現代人から見れば気の毒にみえるが、地方の武士たちにとっては、目もくらむような報酬や略奪物の獲得、武勲に伴う名誉、そして都会的な女性をものにできる、おいしいビジネスだった。

応仁の乱(真如堂縁起絵巻/Wikipedia)

だが、長く続いた戦乱の中で細川京兆家も衰退し、土佐の武士たちに十分に報いることもできなくなり、土佐は遠隔の地でもあったので撤退し、土豪たちは自立していった。

そんななかで異彩を放ったのが、小京都と呼ばれる幡多郡中村の一条氏である。土佐の一条家は、名前だけを受け継いだ五摂家の末流などではない。関白もつとめた一条教房が応仁の乱を避けて荘園のあったこの地に戦乱を避けて疎開し、その晩年に生まれた忘れ形見が土着化した。

土佐一条氏の祖先神と一族を祀る一條神社(winhorse/iStock )

教房のあと京都の一条家は弟の冬良が嗣いだが、教房には55歳のときに土佐でもうけた男子があった。教房はこの子を仏門に入れることを遺言したが、国人たちの希望もあり、1494年になって元服して房家と名乗り左近衛少将に叙任された。

さらに、1516年には、房家の子の房通が一条宗家を嗣ぐことになったので、房家は房通を連れて京都へ上り、自らも権大納言となった。このとき、房家の裕福さは貧乏暮らしを強いられてきたほかの公家たちの羨望の的であったという。

一条氏は名門であることを活かし、海をはさんだ豊後の大友氏や周防の大内氏とも縁組みをし、対明貿易にも参加して幡多地方の黄金時代を現出し、土佐の豪族たちにも強い権威を獲得した。

*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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