龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」

2021年01月09日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

関ヶ原の戦いのあと土佐一国は、「功名が辻」(司馬遼太郎)の主人公である遠江掛川城主・山内一豊に与えられた。2006年のNHK大河ドラマにもなったから、憶えておられる方も多いかと思う。

小林清親筆「今古誠画 浮画類考之内 天正三年之頃」、山内一豊と妻の錦絵(Wikipedia)

山内一豊公は上川隆也さん、主人公である奥方の千代さま(見性院様)は仲間由紀恵さんが演じていた。

山内家は関東武士の名門首藤氏の流れと称していた。相模国山内荘にあったので山内を名乗り、それが全国に拡がった。一門のうち丹波へ移った貞通は2005年に合併し京丹波町になった旧船井郡瑞穂町にあって足利義政らに仕えた。

のちに盛豊は、尾張北半分の守護代である岩倉城主・織田信安の重臣となり、羽栗郡黒田城に拠った。信安が滅びたあと、一豊は美濃から近江に入り瀬田城主・山岡景隆に属したのち信長に仕え、姉川合戦などで戦功を上げた。

秀吉のもとに配属され、現在は長浜市になっている東浅井郡の唐国というところで400石の封地を得た。また、賤ヶ岳の戦いのあとは長浜城を預けられたりしたので長浜との繋がりは深い。

徳川家康公の関東移封と織田信雄公の改易を受けて、豊臣秀次公が近江八幡から清洲に移り、それとともに岡崎の田中吉政、浜松の堀尾吉晴と並んで秀次の与力の1人とされたこともあるが、秀次弾劾に協力したので助かった。

正室・千代は浅井旧臣で米原市飯の土豪である若宮友興の女と山内家ではしている。千代の出自については、郡上八幡の遠藤氏の娘ということが遠藤氏側の資料にあることから美濃説もあるが、浪人中の一豊がどうしてそんな姫君と結婚することになったかも不自然だ。山内家で嘘をいう動機がないのだから、我が主家である山内家の公式見解を否定する気はない。

賢夫人といわれた千代(見性院)が、嫁入りのときに持ってきて鏡筺に隠して置いたへそくりのお陰で名馬を手に入れ、馬揃えで信長の眼にとまり出世の糸口をつかんだという逸話が「常山紀談」に書かれている。

だが、この馬揃えのときに一豊は出陣中で参加していないようだ。だが、関ヶ原の戦いのときに、会津遠征中の一豊に密かに書状を届けて誤りがないように助言した逸話が示すように、千代が賢夫人であったことは事実であろう。

土佐では領地を丸ごと取り上げられた長曽我部旧臣の土豪たちがせめて半国でもと接収にあたった井伊直政らに抵抗した(浦戸一揆)。

中国地方の毛利氏や越後の上杉氏のように、主要な土豪を新領地に連れて行ったのでなく、取り潰しなのでそれもできず、失業者がそのまま残ることになった。ただ、それは、土佐だけでなく全国あちこちであったことだ。

一豊は相撲大会を催し、そこで浦戸一揆の参加者を見つけ次第、273名を殺すといった乱暴な手も使って彼らを押さえ込んだ。いずれにせよ、石高は増えたが、地元雇用はせずに、織田・豊臣系で西軍に属して敗れた大名やその家臣を雇い入れて補充したのである。

*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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