龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山

2021年01月10日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

一豊公と千代の間には娘しかなく、それも長浜時代に地震で夭折していたし、一豊公は側室を置かなかったという。そこで弟である康豊の子である忠義が養子となった。忠義は大坂冬の陣に徳川方に味方して参戦された。

山内忠義像(土佐山内家宝物資料館蔵/Wikipedia)

この時、預かり人であった毛利勝永(元小倉城主の子)が忠義さまとの衆道関係を口実にして脱走して大坂城に入るという珍事が起きている。

そして、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、土佐勢は暴風雨のために渡海できなかったため、参戦できなかった。

野中兼山と伝えられる肖像画(作者不詳/Wikipedia)

そののち、土佐藩はさっそくに財政難に陥った。そこで、一豊の妹の孫にあたる野中兼山を起用して藩政改革に取り組んだ。その激しさは、同じ時代のロシアのピョートル大帝に比するべきもので、同じ江戸初期でも、池田光政や保科正之のような仁政路線とはまったく違うものであった。

高知平野には仁淀川とか物部川といった流量豊富な大河川が流れていたが、おそるべき暴れ川でもあった。これを、延々と堤防を築き、130キロにも及ぶ用水路を拓くことによって新田7千ヘクタールを得たが、動員された農民を酷使した結果でもあった。

高知平野を流れる仁淀川

殖産興業にも取り組み、林業では資源の枯渇を防ぐために「輪伐制」を定め、果樹の栽培も奨励した。土佐はもともと和紙の生産で知られていたが、これを専売制にし技術流出を防いだ。

捕鯨のためには、尾張から専門家を招いて漁民に技術を教えさせた。このほか、農業、工業を問わず、考えられることはすべてやり尽くしたといってよいほどのスーパーマンだった。

忠義は、陶工久野正伯を招いて尾戸焼を始めるなど文化事業も起こしたが、酒と相撲を好み鷹狩を楽しむなど豪気で華美好みだったが、中風のために1656年には嫡子忠豊に家督を譲り隠居された。

兼山は凡庸な藩主だった忠義のもとで大改革を成し遂げ、英明といわれる忠豊によって切られたといわれる。

兼山の仕事はたしかに大きな成果を上げたが、余りにも厳しく、本来は味方になるはずの商工業者までが行きすぎた専売制のために苦しむようになり、農民の逃散も目立って悪いところばかりが目立ってきた。

新藩主になるのを待っていたとばかり、反兼山の重臣たちによる弾劾書が提出されたので、忠豊は少し厳格さを緩和するように助言したが、兼山はこれを聞き入れなかった。

忠豊は藩主親政を決定して、義父である伊予松山藩主松平定勝の同意を得て兼山を解任した。

兼山はその年のうちに死去したが、反対派は野中家の取潰しと遺族の流罪を要求し、遺族は宿毛に幽閉された。宿毛は吉田茂の出身地だ。

野中家が赦されるのは男系が絶えた1703年になってからのことだが、そのあたりは、『婉という女』(大原富枝)という小説の題材になっている。

ただ、藩士たちの本当の不満は郷士の取り立てにあったようだし、また、それが、新しく家臣を抱えて軍備増強を図っているのでないかと噂されたことも、忠豊が幕府との関係で危険だと感じた理由だったようだ。

そのあたりは、次回に書こう。

*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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