龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていた

2021年01月11日 06:00

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

致道館跡/高知県立武道館HPより

土佐の郷士がどういうものだったかについては、すでに少しだけ紹介したが、ここでもう少し詳しく説明したい。このあたりは、私、坂本龍馬が何者であるかの大事なところなので、あえて、詳しく説明しておきたい。

昨日も説明したか土佐の恩人といわれながら最後は無念の死を遂げた野中兼山は、関ヶ原以前に武士であった者に、新田開拓を条件にそれを領地として郷士になることを広く認めた。これには、山内一豊公が土佐という広い国を治めるには家来を十分に雇わなかったので、それを補完さし、軍事力として温存する意図もあった。

もっとも、「郷士」という存在は土佐だけのものではない。「城下以外に在住の武士」という説明がウィキペディアにはあるが、それは正しくない。一国一城令で武士はすべて城下に集められたという誤解があるが、大きな藩では城下町に公務員たる武士を全部集めるわけにはいかなかったから、城下にいなければ郷士なのではない。

郷士の定義としては、「以前に武士であったものや、農民で特に認められた者などで、名字帯刀を許されるなど武士に準じる扱いとされた者」というのが正しい。

ただ、土佐においては、数においても、その役割が重要であることにおいても群を抜いていた。しかも、江戸中期以降には、遠隔地の幡多地方や、「土居」と呼ばれるミニ城下町が領主だった林家の断絶でなくなった窪川地方を開発するために新規に郷士が認められ、そこでは、もともと武士であったかどうかは問われず経済力があれば郷士になれたのである。

しかも、富豪を相手に事実上の官職を売り出すようなかたちでの郷士の創設もあったし、郷士株の売買もあった。我が先祖は、詳細は分からないのだが、坂本という郷士から身分を買ったとも聞いている。まあ、金で買ったとか、献金して認めてもらったとか、あんまり名誉な話しでもないので、曖昧になっているのだと私は踏んでいる。

それでは、土佐の郷士というのは、どういう身分だったのか。多くの日本人が考えているのは、「士族と農民の間に位置する」ということだが、これは間違いだ。

明治になって士族という言葉が生まれたが、江戸時代には足軽や武家奉公人は、武士とはみなされていなかった。さらに、武士も大きく上士と下士に二分されていた。石高とは必ずしもリンクしないが、大きな藩では100石が一つの目処で、上士は騎馬を許され、下士は歩兵で徒士などといわれていた。

殿様にお目見えが許されているのは、上士だけで、大名の立場からは彼らだけが家臣団だった。将軍直参では上士を旗本といい、徒士を御家人といっていた。

土佐の郷士は、騎馬武士と徒士の中間に位置づけられた。土佐藩では正月に「乗りそめ」という行事があった。殿様が筆頭家老の深尾家の屋敷に出向いて、そこで、騎馬武士たちのお披露目を見ることになっていたのだが、このときには、約200名の上士と、400名の郷士が参加したという。

つまり、郷士は上士に準じる扱いだったし、しかも、数から言えば、上士より多かったのである。馬に乗れるかどうかは天と地くらい違うのだ。

しかも、土佐では村役人である庄屋なども分厚く存在していた。それに、本来の下士である徒士や、あるいはそれ以下の足軽、それに郷士株を売ってしまった地下浪人などさまざまな人々は、上士に比べれば下に扱われて重役にはなりづらかったが、藩上層部にとっても侮れない勢力であり、彼らが団結して動けば藩政を揺るがす力もあったのが、他藩では見られない特殊な状況だったのだ。

阿波の三好、備前の宇喜多などの旧臣のほとんども帰農したし、近江の浅井では豊臣系大名、甲斐の武田には幕府や譜代大名の家来に多くの武士が採用されたが、地元に残った者は普通の農民として扱われ、土佐の場合のような特別扱いはなかった。

「竜馬伝」では、土佐では他国にないひどい身分差別があったように描かれているが、それはまったく正反対なのである。

しかも、郷士や庄屋はたいへん勉強熱心だった。「海南朱子学(南学)」という言葉があるが、土佐では幕府が推奨する正統派の儒学より、実践を重んじる独自の流派が優勢だった。この流派では、「正統性」という論理を大変に重視し、国学とも融合して尊皇思想が盛んになった。

南学発祥之地碑(高知県高知市)/Wikipediaより

また、藩校も設けられたが、それ以上に領内各地に設けられた公私の塾が隆盛し、そこで上級武士だけでなく郷士や庄屋など幅広い階層が熱心に学んでいた。私自身はあとでも書くように勉強は苦手だったが、多くの志士を生んだのは、こういう教育熱心な人たちの存在があったからこそである。

「竜馬がゆく」では、明治維新というのは、武士が起こした革命だというのが西洋の革命と違うのだというようなことが書いてあって、そこには司馬さんの武士に対する賞賛の意図がありそうだが、実際のところ、江戸時代にはフランス革命などの原動力になった市民層、つまり、高い教育を受け意識の高い商工業者や農民など例外的にしか存在すらさせてもらえなかったというだけだ。

寺子屋は実用的な教育しかしておらず、西洋の市民が大学で学んだようなチャンスは非常に持ちづらかった。ところが、土佐では、郷士や庄屋という、西洋の市民層に少しに似た層がいたということが素晴らしいことだったのだ。

*本稿は「戦国大名 県別国盗り物語 我が故郷の武将にもチャンスがあった!?」 (PHP文庫)「本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書) と「藩史物語1 薩摩・長州・土佐・佐賀――薩長土肥は真の維新の立役者」より

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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