龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」 』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

上原淳也/写真AC

江戸に着くまでにはだいたい1ヶ月かかった。なにしろ、徳川幕府は国内の交通をあまり便利にしないようにした。信長公や秀吉公は関所を廃止するなどしたのに家康公は復活させ、大きな川には橋を架けずに渡し船にし、大井川などではそれもなく人夫の背中が頼りだった。

幕府は300年近く、この状態を改善しようといっさいしなかった。なにしろ、駿河大納言忠長公が秀忠公の上洛の際に富士川などに船をつないだ橋を臨時にかけただけで、家光公から大権現さまのおきて破りといっちゃもんつけられたくらいだから仕方ない。

京都と江戸は約500キロだから、1日に50キロ歩けば10日で着くはずなのだが、実際には15日とか20日かけた。途中で名所を見物したりするからだが、私の場合は剣術修行が目的なので、あまり寄り道をせずに江戸に向かった。

江戸へ着くと、まずは、土佐の上屋敷に届け出に行く。現代では藩邸などというが、当時は「藩」がなかったのでそんな言い方はなく、「土佐の上屋敷」とかいった。現在の東京国際フォーラム、かつての東京都庁の場所がそうで、鍛冶橋に近かった。

ただ、ここは敷地も狭いので、私は築地にあった中屋敷に落ち着くことになった。現在の中央区役所のあたりだ。

剣術は千葉定吉道場に入門した。兄の周作の方が有名だが、この兄弟の父は陸前高田(栗原ともいう)の出身で、代々、剣術とか馬医者を業としていた。周作は中西派一刀流を学んだが、やがて、独立して北辰一刀流を始め、神田於玉ヶ池に道場を開いた。

精神修行のようなことより実用的な剣術を教えてくれ、免状の等級もシンプルなことから、費用も安く人気を博していたのである。

定吉先生は周作先生の弟で、はじめ兄の道場を手伝っていたが、のちに小伝馬町に自分の道場を開いていた。私が通ったのが八重洲の桶町の道場だという人もいるが、そちらに移ったのは後のことだ。

この千葉定吉先生の道場では、私は千葉家の人たちにもかわいがられ、水を得た魚のように伸び伸びと青春を謳歌できた。

だが、思いもかけぬ事件で、剣術修行どころではなくなったのだ。江戸湾の入り口にある浦賀にアメリカとやらの黒船が来航したのだ。嘉永6(1853)年6月3日のことである。

ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ(Wikipedia)

このとき、殿様だった豊信(容堂)公は国元におられたが、幕府からは海岸防備が命じられた。芝三田と品川大井村、鮫洲など沿岸に屋敷があったことも理由である。さっそく品川屋敷には大砲が据えられたが、これが荻野流の旧式のもので役に立ちそうもなかった。

なかには、大砲はあったが、砲弾を財政難で売ってしまっていて、困り果てた大名もいたそうだ。そんなのばかりだから、砲弾や弾薬の価格は暴騰していたからたいへんだった。

当然、私も動員されることとなったが、江戸に出てきたばかりの血気盛んな若者にとっては、それこそ血湧き肉躍る経験だった。このときは、とりあえず、来春の再来を予告してペリーは引き上げたのだが、他の国の船も現れていたからいずれ一悶着ありそうだった。

土佐にある家族に手紙を出し、兄の権平には「異国船があちこちにやってきたので、戦いが近いうちにありそうです。その節は異国人のくびをうちとり国へ帰らねばと思っております」と書き送ったのは、異国船警備からいったん解放された9月23日だった。

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら