不正投開票は争点にならなかった? 04年台湾総統選の接戦裁判を振り返る

筆者は昨年5月、-陳水扁元台湾総統の「話の肖像画」で台湾を深く知る-と題し、3回に分けて本欄に投稿した。産経新聞が20年3月22日から4月25日まで33回にわたり連載した49千字にのぼる陳元総統の回顧譚についてまとめたものだ。

陳水扁氏(台湾総統府サイト)

異例な長期連載と内容とが、産経贔屓で台湾好きな筆者の興味を引いてのことだが、当時はコロナ禍がこれほど深刻化するとも、また米大統領選の酷い混迷も夢想すらしなかった。が、今「話の肖像画」を読み返すと、現下の出来事と04年の台湾総統選の状況の似ている点に気づく。

先ずはSARS(重症急性呼吸器症候群)。03年春に流行し始め、結局84人の死者を出したこの流行病で夜を昼になす対応に追われた陳だが、何より困ったのはWHOから排除され情報がないこと。台湾社会の怒りはSARSを「中国肺炎」と呼ぶべしとの声を挙げさせた。

03年5月、WHOが台湾の総会オブザーバー参加を議題にさえしないと知った陳は、「WHO加盟を求める公民(国民)投票」の協議を与野党に呼び掛けた。00年に政権奪取したものの少数与党で捻じれた国会運営は苦しい。そこで翌年に控えた2期目の総統選へ一つの布石を打ったのだ。

民進党は、72年の米中上海コミュニケとその後の国連脱退を契機に活発化した「党外」(国民党の外)の民主化運動の集大成として86年に結成された。李登輝総統の民主化路線に呼応して議席を伸ばしたが、00年の勝利は与党分裂(李後継の連戦と李と袂を分かった宋楚瑜)の漁夫の利を得た辛勝だった。

下野した国民党は、中国統一派の「新党」および宋楚瑜が建てた「親民党」と「汎藍」として結集、他方、民進党は国民党を離れた李登輝を精神的柱とする「台聯」と共に「汎緑」を形成し、政権を運営した。「台湾正名運動」や「李登輝友の会」(後に「李登輝基金会」)などの発足はこの頃だ。

当時の李登輝政略の骨子を若林正丈教授は、「民進党の左を台聯で固めて右にウイングを伸ばし、国民党(中国派)の左(台湾派)を引き付けて、台湾派で立法院議席の2/3を占める」と忖度しつつ、事態は必ずしも思惑通りには進まなかったと述べている(「台湾の政治」東京大学出版会)。

多数派「汎藍」構築の背景の一つには、民進党政権による第4原発建設中止政策への対抗もあった。公民投票法の改正は、少数派の民進党が世論を背景に政策を進めるための戦略で、選挙巧者の陳はSARSを公民投票実施に利用し、併せて立法院改革や憲法改正などをも目論んだ。

03年12月、世論調査で陳に抜かれた連戦も公民投票で新憲法を制定する構想を急遽発表し、27日に「汎藍」側の法案が可決された。これを受けて陳は04年1月半ば、3月20日の総統選と併せて以下の2件を公民投票に掛けるとTV演説した。

  1. 中国が台湾に対するミサイル照準を解除せず、台湾に対する武力行使を放棄しない場合、政府が反ミサイル装備の購入を増加させ、台湾の自主防衛を強化することに賛成するか。
  2. 政府と中国が交渉を開始し、両岸の平和安定の相互関係構造確立を推進し、それによって両岸のコンセンサスと人民の福祉を追求することに賛成するか。

WHO参加への賛否を問う設問を降ろしたのは、国際機関への参加といった独立に準ずるような事案を公民投票に掛けることに、中国は元より、米国も父ブッシュが訪米中の温家宝首相に「一方的現状変更」と述べて反対したからだ。コロナ禍の今日では考え難いが、日本やフランスも米国に追従した。

03年12月25日に訪台した森喜朗前総理は陳総統に「米国の苦悩も考えてあげるべきだ」と述べた。またシラク仏大統領は04年1月、訪仏中の胡錦涛主席に、台湾の住民投票は「重大な誤りで」、「現状を破壊し地域を不安定にさせるものだ」と述べて如何にも親中派らしい(若林前掲書)。

そして始まった選挙戦で「汎緑」は2月28日(二二八事件の記念日でもある)、中国のミサイル配備に抗議し、100万余の「人間の鎖」で台湾全島を繋いだ。「汎藍」も「総統を変え、台湾を救おう」と叫んで集会とデモを展開した。投票日前日には陳水扁銃撃事件も起きた(拙稿参照)。

選挙結果は米大統領選どころでない大接戦で、即日開票の結果は「汎緑(陳水扁・呂秀蓮)」6,471,970票(50.11%)対「汎藍(連戦・宋楚瑜)」6,442,452票(49.89%)だった。「汎藍」は同夜、結果受け入れを拒否、集まった支持者と共に総統府前広場まで行進し、座り込みを始めた。

座り込みは4月10日まで3週間続き、とうとう「汎緑」が再集計に応じたが、「汎藍」は「当選無効」と「選挙無効」の2件の訴訟を起こし、事態は法廷の場に移された。

5月18日の再集計結果は「汎緑」6,446,900票(50.09%)対「汎藍」6,423,906票(49.91%)で変わらず、11月4日の「当選無効」訴訟の高等法院判決でも「汎緑」6,461,177票(50.10%)対6,435,614票(49.90%)だった。「選挙無効」訴訟は12月30日に原告敗訴判決が出た。

なおも「汎藍」は上訴したが、最高裁は翌05年6月に「当選無効」を原告敗訴とし、「選挙無効」も同年9月16日、「選挙の正当性を疑わせる証拠はない」と判決した。最高裁が点検確認した票差は「16,109票」という僅差だった(若林前掲書)。投票からはすでに1年半が経っていた。

公民投票は「汎藍」による銃撃事件やらせ説や公民投票拒否の呼びかけなどにより、2件とも不成立となった。国民党が政権奪還した08年でも、「国民党不法取得財産の返還」、「指導者の腐敗追求」、「台湾名義による国連加盟」、「国連復帰」が全て否決されたが、初めて国連絡みの案件が俎上に上った。

蔡英文が8百万票以上を取って総統選を圧勝した昨年1月には、原発再稼働中止、福島近県産品禁輸継続、同性婚容認などが可決された。如何にもリベラル政権が支持される台湾らしい案件とは言え、「公民投票」がしっかりと根付いたことを物語る。

最高裁は「選挙の正当性を疑わせる証拠はない」と判決したが、かつて台湾では「黒金政治」と称される贈収賄(金)とやくざ(黒道)による選挙不正が横行した。96年の総統選時の民進党によるアンケートでは、国民党李登輝候補の「黒金政治克服」の項目が4候補中最低だったと言う(若林前掲書)。

04年5月20日、「汎藍」が国父記念館前で2つの無効訴訟と自作自演を疑う銃撃の真相解明を訴える抗議集会を開く中、総統府では就任式が粛々と行われた。大規模動員で双方が激しく応酬し合ったが、争点は今回の米大統領選のような不正投開票ではなかったようだ。