選択的夫婦別姓見送り(上):保守派の反対意見は根拠希薄な憶測

衛藤 幹子

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選択的夫婦別姓は、1996年に法制審議会が制度の導入を提言して以来、24年間棚上げにされてきた。それが、橋本聖子男女共同参画担当大臣が実現に向けた方針を第5次男女共同参画基本計画に盛り込むと発言し、加えて菅義偉首相は過去に賛同を示しており、やっと日の目を見るのではないかと期待された。だが、昨年12月25日に閣議決定された基本計画に立法化への言及はなく、期待を裏切る結果に終わった。

菅政権が法制化に舵を切れなかったのは、自民党内の(超)保守派(そもそも自民党は保守政党なので、その中でもより保守的、あるいは右派的なグループ)の抵抗に屈したからだというのが大方の見立てだ。

保守派が選択的夫婦別姓に反対するのはなぜか。昨年の2月19日付のNHK NEWS WEBの特集記事(政治マガジン「夫婦別姓は、導入されるか?」)に掲載された反対派の急先鋒、山谷えり子参議院議員によると、理由は家族の絆や一体感の喪失、結婚の価値の低下、子どもの姓をめぐる問題の3点に整理できそうだ。しかし、私にはいずれも大した根拠のない、憶測にすぎない理由のように思われる。

まず、別姓が家族の絆を喪失させるという主張、すなわち同姓こそが家族の絆の条件というわけだ。しかし、同じ姓を名乗る程度で、絆が深まるのかは甚だ疑問である。家族の結びつきは、空間と時間の共有によって生じるものだ。日々の暮らし、記念日や行事のお祝い、旅行等々、様ざまな事柄をともに経験し、喜怒哀楽を共有することで紡ぎ出される家族の歴史こそが絆の源泉だと思う。同姓が夫婦関係破綻の防波堤になるなど、まずあり得ないだろう。

世界の中で別姓を認めていないのは日本だけだという。では、別姓を認める国々の家族の絆は果たして脆弱なのか。これを総務省統計局「世界の統計(2018)」による国ごとの離婚率(人口1000人当たり)で検証すると、日本は1.7、データのある69ヵ国の平均が1.66なので、日本の離婚率は取り立てて高くはないが、低いわけでもない。ちなみに、最も高いのはロシアで4.7、最も低いのが0.4のカタール、グアテマラ、ペルー、ボスニア・ヘルツェゴビナであった。同姓/別姓と離婚率の間に因果関係はなさそうだ。

山谷氏は、夫婦別姓になると「ファミリーが個人個人に分断される」と述べ、家族が一体であるべきことを強調する。だが、私は家族を「一体」なる美名で縛ることにはとても賛同できない。夫婦であっても、それぞれ固有の人格をもち、自立した別々の個人だ。一体化とは、大抵の場合、相手の人格を乗っ取るか、あるいは乗っ取られるかで達成されるものだ。妄想家の私は、家族の一体化の行き着く先に家庭内暴力や虐待を想像して、恐怖すら覚える。夫婦間、親子間には適度な距離が必要だ。

二つ目の別姓によって結婚の価値が損なわれるという考えは、伝統を重んじる保守派らしい言説である。価値ある結婚とは公的に認証された法律婚を意味する。しかし、この結婚制度は日本の伝統ではない。法律婚は、1896年に公布された明治民法第775条(婚姻はこれを戸籍吏に届出るによりてその効力を生ず)の規定によって導入された、決して古いとは言えない制度で、プロイセン、フランスなどの法体系を取り入れた西洋の模倣なのである。日本の伝統的な結婚形態をいうなら、むしろ入籍に拘らない事実婚だ。

文化論争はさておき、「価値ある結婚」が若い人たちの婚姻のハードルを高くしている節がある。結婚には入籍と同時に結婚式、新婚旅行、新居の構え、両家の親兄弟、親族との付き合い等々、楽しい反面、煩わしいことが付随する。気軽にできるものではない。なかでも経済的負担は大きく、結婚を躊躇う要因になる。

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2015年に国立社会保障・人口問題研究所が実施した「第15回出生動向基本調査(結婚と出産に関する全国調査)」によると、18歳〜34歳の未婚者の9割弱が結婚への意思を持っていたが、そのうちの約7割が1年以内の結婚には障害があると答えている。その障害のなかで「結婚資金」と回答した者が42.6%(男性 43.3%、女性 41.9%)と最も多かった。

結婚の価値を高め、神聖化することは、結婚率の向上には逆効果である。ハードルを下げるには、結婚を交際のやや先にある、気楽で気軽なものだという考えを広めることだ。その点で、結婚のあり方の選択肢を増やす(選択的)夫婦別姓は結婚率の向上に資するはずである。

三つ目の子どもへの影響も説得力に欠ける。山谷氏は子どもがいずれの姓を名乗るか、夫婦や親族の間で争いが生じることを危惧するが、争いはあくまで家族内のプライベートな問題、国が関与すべき事柄ではない。こうした過剰な配慮は、不要なお節介、パターナリズムである。

一方、学校では些細な事柄がイジメの対象になるようなので、家族間の姓の違いゆえに子どもが苛められる可能性は否定できない。しかし、姓の違いは、イジメの土壌や兆候があるときに、引き金の一つになるにすぎない程度のもの。多様性を容認する社会になれば、イジメの引き金にはならないはずだ。別姓によって社会の多様性が高まれば、むしろイジメの抑制に繋がる。

反対派の自民党議員が「別姓でないと困るという意見はエビデンスがしっかりしていない」「導入ありきの議論は成り立つはずがなく、お粗末だ」と述べたことが、日経新聞のウエブマガジン「Woman Smart キャリア」12月28日の配信記事(「選択的夫婦別姓のハードルは? 議論進まず四半世紀」)に紹介されていた。この発言、まるで当の反対派の意見のことを指しているではないか。ネットで言うところの「ブーメラン」である。