龍馬の幕末日記㉟ 容堂公と勤王党のもちつもたれつ

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

山内容堂 Wikipediaより

土佐のご隠居様である山内容堂公と武市半平太など勤皇派の関係は微妙なものだった。そもそも、安政の大獄で隠居のやむなきになり、謹慎を命じられていた容堂公を救出したいという思いが土佐勤王党の原点であった

しかし、武市半平太らが容堂公お気に入りの吉田東洋を暗殺したことには容堂公は怒られただろうが、門閥派と勤王党が手を握って政権を押さえた以上は、ご隠居さまの立場で、それはだめだともいえず、追認のかたちだった。

殿様は家来同士の争いにあまり介入しないものなのだし、殿様は豊範公だという建前もある。

その後の豊範公の上京、勅使随行についても、危うさは感じる一方、勤皇を旨とする立場の容堂公としては、それなりに家来たちが大成功をおさめている以上は悪い気がしなかった。

そんなわけで、三条勅使が江戸へ下ってきたときは、容堂公としても首尾が上々に行くようにそれなりに独自ルートで努力もされた。

だが、下士たちが藩政のみならず朝廷や幕政まで壟断するありさまには手を焼いておもしろくなかったのも事実である。

そして、それが、この年の容堂公の帰国と、同じ時期に起こった8月18日の政変を機に、容堂公のバランス感覚が勤王党の大粛正という結果になった。

もともと、勤皇派を良く思っていなかった容堂公が、一気に逆襲に出たというような見方はおかしい。容堂公はもう少し複雑な人物だ。

容堂公が、家臣たちと談話されていたときのことだ。

「戦国武将でわしに一番似ているのは誰か」と問われた。ある者が、「おそれながら、毛利元就」と申したところ、「そうか。しかし、もし、吉田が生きていたら織田信長といってくれただろうに」とため息をつかれた

本当は信長になりたいのだが、慎重に配慮しすぎて策士というイメージしかない元就に似ていると見られるのが、この殿様の理想と現実のギャップだというのが辛いところなのだ。

容堂公は京都にあっては尊皇攘夷派の意向に従っておられたが、このあたりがしおどきとみられて、3月20日になると、土佐の海防強化が必要だとして京都を離れられた。

容堂公は高知に入るとさっそく体制の立て直しを始められた。あとで説明する青蓮院令旨事件で間崎哲馬、加尾の兄の平井収二郎は投獄され、武市半平太も不安を感じながらも4月8日に伊予の馬立で容堂公に拝謁したあと、帰国命令に従った。久坂玄瑞らは長州への脱走を勧めたが、半平太は取り合わなかったのである。

さらに容堂公は、いわばクーデターに踏み切られて、半平太が擁立した大監察小南五郎右衛門、家老の渡辺弥久馬、国家老の深尾鼎らを解任された。4月23日のことだ。

一方、5月になると、下関では「攘夷実行」とばかりに長州がアメリカ商船ベムプローク号を砲撃した。それからさまざまな形で展開する事件の始まりである。

「龍馬の幕末日記① 『私の履歴書』スタイルで書く」はこちら
「龍馬の幕末日記② 郷士は虐げられていなかった 」はこちら
「龍馬の幕末日記③ 坂本家は明智一族だから桔梗の紋」はこちら
「龍馬の幕末日記④ 我が故郷高知の町を紹介」はこちら
「龍馬の幕末日記⑤ 坂本家の給料は副知事並み」はこちら
「龍馬の幕末日記⑥ 細川氏と土佐一条氏の栄華」はこちら
「龍馬の幕末日記⑦ 長宗我部氏は本能寺の変の黒幕か」はこちら
「龍馬の幕末日記⑧ 長宗我部氏の滅亡までの事情」はこちら
「龍馬の幕末日記⑨ 山内一豊と千代の「功名が辻」」はこちら
「龍馬の幕末日記⑩ 郷士の生みの親は家老・野中兼山」はこちら
「龍馬の幕末日記⑪ 郷士は下級武士よりは威張っていたこちら
「龍馬の幕末日記⑫ 土佐山内家の一族と重臣たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑬ 少年時代の龍馬と兄弟姉妹たち」はこちら
「龍馬の幕末日記⑭ 龍馬の剣術修行は現代でいえば体育推薦枠での進学」はこちら
「龍馬の幕末日記⑮ 土佐でも自費江戸遊学がブームに」はこちら
「龍馬の幕末日記⑯ 司馬遼太郎の嘘・龍馬は徳島県に入ったことなし」はこちら
「龍馬の幕末日記⑰ 千葉道場に弟子入り」はこちら
「龍馬の幕末日記⑱ 佐久間象山と龍馬の出会い」はこちら
「龍馬の幕末日記⑲ ペリー艦隊と戦っても勝てていたは」はこちら
「龍馬の幕末日記⑳ ジョン万次郎の話を河田小龍先生に聞く」はこちら
「龍馬の幕末日記㉑ 南海トラフ地震に龍馬が遭遇」はこちら
「龍馬の幕末日記㉒ 二度目の江戸で武市半平太と同宿になる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉓ 老中の名も知らずに水戸浪士に恥をかく」はこちら
「龍馬の幕末日記㉔ 山内容堂公とはどんな人?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉕ 平井加尾と坂本龍馬の本当の関係は?」はこちら
「龍馬の幕末日記㉖ 土佐では郷士が切り捨て御免にされて大騒動に 」はこちら
「龍馬の幕末日記㉗ 半平太に頼まれて土佐勤王党に加入する」はこちら
「龍馬の幕末日記㉘ 久坂玄瑞から『藩』という言葉を教えられる」はこちら
「龍馬の幕末日記㉙ 土佐から「脱藩」(当時はそういう言葉はなかったが)」はこちら
「龍馬の幕末日記㉚ 吉田東洋暗殺と京都での天誅に岡田以蔵が関与」はこちら
「龍馬の幕末日記㉛ 島津斉彬でなく久光だからこそできた革命」はこちら
「龍馬の幕末日記㉜ 勝海舟先生との出会いの真相」はこちら
「龍馬の幕末日記㉝ 脱藩の罪を一週間の謹慎だけで許される」はこちら
「龍馬の幕末日記㉞ 日本一の人物・勝海舟の弟子になったと乙女に報告」はこちら