龍馬の幕末日記㊳ 「日本を一度洗濯申したく候」の本当の意味は?

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

Takacchi/写真AC

21世紀になって、政治改革が話題になったころ、「日本を洗濯したく」という私が姉の乙女に出した手紙の文句を政治家がよく使ったりして「龍馬にあやかりたい」といってると聞いた。

だが、これは、行政改革とはなんの関係もない話なのだ。手紙はこんな風な調子だった。

「この手紙は、しごく大事なもので、決してお喋りな連中には見せてはだめだよ。私も最近、芽が出てきたようで、越前の殿様に見込まれたりし、2、300人を抱えて使えるようになりました。ところで、誠に嘆くべきことは、長州が6回も外国と戦い勝ち目がないのですが、長州との戦いで痛んだ外国船を江戸で修理し、また、長州に向かわせていることです。悪い幕府の官吏が外国人と内通してやっていることです 。龍馬は2,3の大名と約束し、朝廷にこの神州日本を滅ぼさない方針を立てさせ、江戸の同志とも力を合わせ、姦吏を打ち殺し、日本を今一度洗濯いたし申すと神に願いたいところです。そこで、越前に仕えてはという話もあるのですが、お断りしました。まあ、天下に人物がいないと言うことでしょうか」

 つまり、長州が幕府からの命令をそのまま実行して外国船を砲撃した「四国艦隊事件」に関して、幕府が長州を誉めるどころか、傷んだ外国船の修理を幕府の造船所でやっているを怒ったのだ。

幕藩体制を全面的に改革しなくてはとかいった大げさな意味で使ったのではない。

このころ私は、勝海舟先生の使いとして京都の越前屋敷に行き、村田氏寿と議論したときには、相手の整然とした議論を打ち破れず、口惜しかった。

 「長州が異国と戦っているのに手をさしのべないのでは防長は外国のものになるやもしれぬ。大久保一翁先生、勝先生に説いて目標を定め、春嶽公父子、長岡良之助(細川護良)、容堂公に上京してもらい、幕府の俗吏を退かせる行動を起こすべきと考えますが」と言ったのだが、「長州の軽挙のために日本中が倒れるわけにはいかん」と反論された。

ところで、この時期に出した手紙では、このころの私の人生観のようなものも少し書いている。

「新田義貞が稲村ヶ崎で太刀を海に投げ入れたら潮が引いたと言うが、それは干満をあらかじめ知っていただけのことだ。天下において、何事かなそうとするなら、膿もまだよく腫れないのに針で突いても出ないのと同じでタイミングが大事です」

もっとも、記憶がはっきりしないが、この手紙は翌年のものだったかもしれない。

ちょうどこのころ、老中の小笠原長行が軍艦に兵を乗せて江戸から大坂にやってきて上京して朝廷を脅そうとした。

これを誅殺しようという長州の志士たちの動きに私や海軍塾のものが誘われたが、いまはそういう時にあらずとして、必死にこれを押しとどめた。

「私は長生きできないかもしれないが、普通の人のようになかなか滅多なことでは死なんぞ。私が死ぬ日は、天下に大変なことが起こり、生きていても役に立たず、おってもしょうがないようにならねば、なかなかこすい嫌なやつだから死にはしない。 土佐の芋掘りなどという身分の次男坊に生まれながら、天下を動かすようになれば、それも天の思し召しでしょう。こんなことをいっても、つけあがっているのではありません。泥の中の蜆のように、土を鼻の先につけ、砂を頭にかぶっていますので安心されたい」とも書いている。

私のことを格好よく潔いヒーローだと感じる人が多いが、タイミングをよく見計らうのが信条だし、死ぬことに美学を感じるような気質ではない。

幕末の争乱とか、戦争の時には命を軽く捨てるような若者が多くなるが、私が多くの志士たちと比べてもそれほどの才覚もないのにもかかわらず、一仕事できたのは、命を大事にしたからだということを肝に銘じて欲しい。

このころは、気分的にも余裕があったので、手紙のなかで、いろんな人のことを書いている。

乙女が出家などしたいとか、諸国を施しを受けながら回りたいなどと書いてきたことをからかって、お経の勉強もしなくてはならないし、ありがたい法話も必要だが、やれるものならやってみたらと挑発している。

「菊目石のようなあばたのある姪の春猪にも、乳母にもよろしく。やはり少しあばたのある下女(徳増屋に言っていた紺屋の娘のことだ)にもよろしく」と書いた。

また、このころ、土佐から脱走した池内蔵太の母が嘆いているというので「朝廷というものは国よりも父母よりも大事にしなければならんという決まりです。父母を見捨て妻子を見捨てるは大義にあらずというご意見ですが、それはヘボクレ役人やムチャクチャ親父の自分の藩大事、我が家大事であって、男としてのあるべき話ではありません。蔵太がヘボクレ議論に同意してめそめそしては蔵太を辱めることになります」と意見した。

池蔵太は高知の小高坂でわずか七石取用人の家に生まれ、岩崎弥太郎の塾で学んだ。脱走して長州へ移り、天誅組の乱、禁門の変で活躍したのち、海援隊に参加したが海難事故で死んだ。私の右腕になると期待しただけに残念だった。

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