龍馬の幕末日記㊳ 勝海舟の塾頭なのに帰国を命じられて2度目の脱藩

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

勝海舟 Wikipedia

このころ、私は勝先生の指示に従い、江戸と京都、神戸を行き来していた。大久保一翁先生から諸侯の会議の設置についての話を聞くようなこともあったし、京都に復帰してこられた春嶽公にも謁見もした。

こんななかで、私はひとつの決断をした。男子のない兄権平の養子にならないことに決めたのだ。権平の妻千野の弟である川原塚茂太郎に手紙を書いた。「養子の件は何年も前からの兄の希望だが、土佐一国で学問すれば一国だけの論になるが、世界を横行したらそれなりに眼を開く。天から受けた知を咲かさないといかんとおっしゃていたでしょう。勢いによっては海外へも行くかも知れず、仮に40歳まで国へ帰らないと兄は60歳になってしまう。親戚でよく相談してしかるべき養子を立て欲しい」といった趣旨であった。兄たちにとっても仕方ないといったところだっただろう。

このころ、土佐における勤王派粛清の影響は厳しい形で私にも降りかかってきた。10月12日には勝先生のもともに、半平太の逮捕、長州への亡命者が続出していること、京坂在住者に帰国命令や捕縛がなされていることなどが聞こえてきた。

そして、11月末には千屋虎之助、望月亀弥太、高松太郎、安岡金馬に帰国命令がなされた。私にも帰国するようにとの意向が伝わってきたので勝先生に相談したところ、「坂本は塾頭を申しつけており、過激な行動はさせないので、ひきつづき留めおきたい」と土佐藩目付に依頼状を書いてくださったので江戸屋敷に届けた。

だが、ともかくいちど帰国すべきだといわれた。もとよりその気はなく、またもや、脱走者として扱われることになったのである。

とはいっても、まだこの時点では勝先生が軍艦奉行として健在だったのだから、あまり怖がることではなかった。

文久3年、12月27日には、将軍家茂公が軍艦で上京されることになったが、第一回の上洛では、家定公御台所だった篤姫様の反対で陸路になったが、こんどは、反対などされなかった。 御座船となった翔鶴丸をはじめ五隻の幕府軍艦、それに各藩の船も加わる大船団となり、そこに勝先生の門下生がそれぞれ指導員として乗り込んだ。

京都では大久保一翁先生と同じような考えで島津久光公が提案された参与会議が始まった。一橋慶喜、会津の松平容保公、松平春嶽公、伊達宗城公、それに山内容堂公である。久光公は官位がなかったので、任官されてから少し遅れて参加された。

もう、こうなると、実力本位。石高も官位も関係なくなった。

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