龍馬の幕末日記㊵ 新撰組は警察でなく警察が雇ったヤクザだ

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

近藤勇 Wikipediaより

長州は前年における8月18日の政変や下関で外国船を砲撃した事件のあとも、世論からはおおいに支持されていた。鳥取侯や岡山侯など慶喜の兄弟たちもそうだし、佐賀の鍋島直正公などもそうであった。

攘夷を口にしながら煮え切らない幕府への軽蔑と、何はとまれ果敢に戦いを挑んだ長州のけなげさの違いが際だっていたのである。そこに池田屋事件が起きた。

池田屋事件の日に、私は江戸にいた。このころ、尊攘派の浪士が京都に火を放って、主上を長州へ連れ去る計画をしているという噂があった。近藤勇らが近江出身の浪人古高俊太郎を捕まえて拷問してみると、その計画を白状したというが怪しいものだ。

近藤は守護職や所司代にも連絡したが、新撰組を率いて浪士が集結していた三条の池田屋に踏み込み、取り調べもせずに片端から斬殺したのである。正規の役人だとここまで手荒なことをしないが、新撰組はそういう超法規的な警察活動をするのに平気だった。まさに会津藩という警察が雇ったヤクザものであった。このとき、死んだ中にあの望月亀弥太らもいた。

新撰組の活動を、正規の警察活動というひとがいるが、とんでもない。警察ならやれない超法規活動ができるからこそ存在価値があったのだ。そして、そんな連中に京都市民が好感をもつはずない。

そうした世論を背景に長州では過激派が挙兵を主張していたが、高杉晋作や桂小五郎は慎重派だったし、久坂玄瑞も彼らの動きを押さえていた。だが、池田屋事件で一気に強硬論が優勢となり、福原越後、国司信濃、益田、久坂玄瑞らは京都へ向かい、「禁門(蛤御門)の変」(7月19日)を起こしたが敗れて多くが死んだ。

余談だが、「竜馬がゆく」には、嵐山観光に出かけた私たちが、新撰組の浪士狩りに遭遇したときのエピソードが書かれている。道いっぱいに広がって進む土方才蔵らの隊士たちをからかうように前を横切り、道ばたの子猫を抱き上げて、こんどは隊士たちの真ん中に分け入ってそのまま猫に頬ずりしながら反対方向に去っていったという話である。

これは、明治時代の伝記にあるエピソードを脚色したものだが、新撰組でなく会津藩の一隊であり、子猫は子犬だ。この元の話すらかなり脚色があるのだが、正規の公務員で無用な斬り合いなどしたくない会津藩士だったからこそ、そんな真似もありえたのであって、土佐犬よりどう猛な新撰組相手にそんな怖いことするはずない。

新撰組などと出くわしたら私は逃げた。お龍と一緒に伏見の街を歩いていたら、新撰組の隊士とでくわしてけんかを売られたことがある。私は隙を見て逃げ出したのを、お龍がうまくさばいてくれた。あとでお龍から女を置いて逃げるとはとえらく怒られた。だが、命を大事にすると言うのはそういうことなのだ。

お龍と出会ったのも、このころのことだが、そのことは、またあとで話そう。

久坂玄瑞は鷹司家で自刃、真木和泉は山崎へ逃げたもののやはり自害した。このとき、土佐からも池内蔵太、安岡金馬、中岡慎太郎らも参加し、多くの戦死者を出した。この戦いころ勝先生や私は神戸にいたが、大坂にかけつけ、さらに淀川をさかのぼって様子を伺ったりしていた。

しかも、8月5日には、四国艦隊が下関を砲撃して、またもや、撃破された。この戦争の停戦交渉は、イギリスから急ぎ帰国した伊藤博文らの助けを借りて高杉晋作が行い、土地の租借を断固拒否して名をあげた。

攘夷というと後ろ向きに聞こえるし、無謀のようでもあるが、攘夷の元祖のような吉田松陰先生が米国船に乗って米国へ行こうとされたように、攘夷主義者の視野が狭いとは限らない。実際に、欧米と現実に戦った薩長の方が彼らからも評価されることになり、維新の主役となっていったのは何も偶然でない。

逆にこのときに、幕府は四国艦隊の砲撃を邪魔することなく放置した。このことを勝先生もあきれはて怒りを爆発されたし、征長を準備する幕府に対して、まず、異国との戦いで長州を助ける方が先であろうという厳しい批判が寄せられたのである。

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