龍馬の幕末日記㊺ お龍についてのほんとうの話

八幡 和郎

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

晩年の楢崎龍 Wikipediaより

私がお龍と知り合ったのは、文久四年・元治元年(1864年)の初夏である。「竜馬がゆく」ではもっと早くになっているが誤りだ。

神戸の操練所が正式の発足したころだが、このころ、中岡慎太郎、元山七郎、望月亀弥太、池内蔵太などと京都東山でアジトを借りていた。大仏(方広寺)南門今熊野道の河原屋五兵衛というものの隠居所である。

そのときに飯炊き女として雇ったのがお龍の母だった。お龍の父は楢崎将作という医者だった。楢崎家はもとは長州藩士だったが、何代か前から京都に移り、将作は柳馬場三条下るで開業し、青蓮院宮の侍医でもあった。

勤皇思想の持ち主で志士たちと交わっていたが、文久2年に病死し、未亡人と男2人、女3人の家族は家財道具など売って生活していたが、やがて、あちこちに分かれて奉公するようになった。

お貞が身の上話を私にしたのを聞いて七条新地の扇岩という旅籠で仲居をしていたお龍に会ったところ、すっかり気に入って、内縁関係になったのである。

なにしろ面白く気の強い女で、16歳の妹三枝が大坂に女郎として売られたときには、懐に刃物を入れて乗り込み、彫り物をした悪党の胸ぐらをつかみ、顔を引っ張ったあげく、「殺せるなら殺せ」と啖呵を切って妹を連れ戻して来たほどだ。

ところが、池田屋事件でこのアジトは使えなくなたので、お龍は寺田屋の女将であるお登勢に預かってもらい、家族もそれぞれ居場所を見つけてやった。乙女への手紙では、「私に危険が迫ったときに助けてくれたこともあります。

いずれ土佐にも連れて行きたいと思いますし、姉さんのことを実の姉のように慕っています。龍馬より強いという乙女さんのことは諸国に知れ渡っているのです。礼儀作法の本など送ってくれるように頼みましたが、それに加え、乙女姉さんの帯か着物をひとつこの者につかわしてくれんでしょうか」と頼んだ。

お龍との間を認めてくれと言うことだ。

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