龍馬の幕末日記㊼ 龍馬の遅刻で薩長同盟が流れかけて大変

※編集部より:本稿は、八幡和郎さんの『坂本龍馬の「私の履歴書」』(SB新書・電子版が入手可能)をもとに、幕末という時代を坂本龍馬が書く「私の履歴書」として振り返る連載です。(過去記事リンクは文末にあります)

木戸孝允 Wikipediaより

木戸孝允が大阪に着いたのは、冬季の悪天候もあって12月27日に三田尻(山口県防府市)を発ってから11日目の慶応二年の1月7日だった。

品川弥次郎らが同行した。翌日、川船で伏見へ向かったが、途中、真木和泉が自刃した山崎を通るときには、木戸は禁門の変以来で死んだ同志たちに思いをはせ、涙が止まらなかったといっていた。伏見では西郷隆盛が木戸を迎え、木戸は京都二本松の薩摩屋敷に入った。現在の同志社大学今出川キャンパスだ。

本来、私は木戸の出発に同行するはずが、長州での桜島丸問題の決着が延びたために間に合わなかった。そして、新年になっても適当な船便がなく、ようやく出発できたのは1月10日のことである。「竜馬がゆく」では木戸の出発後に長州に入ったようになっているが、そんなことはない。

このとき、新宮馬之助や池内蔵太のほか、三吉慎蔵という長府藩士が私に付いてくることになった。三吉は私より4歳年上で、維新後には北白川宮家の家令となった。その彼を私に紹介したのは、やはり長府藩士の印藤聿で、維新後は実業家として地元の発展に尽くした男だ。

ちなみに、長府藩というのは、毛利輝元の従兄弟で、秀就が生まれるまでは養子として、毛利の跡取りだった毛利秀元を初代とする支藩である。

ただし、江戸時代のなかごろに、秀就の子孫は断絶していたので、このころの長州藩主である敬親公もこの秀元の子孫だ。乃木希典も長府藩士だ。

だが、これまた悪天候でてまどり、大阪に着いたのは18日である。その夜、私は大坂に来ていた幕臣の大久保一翁先生を密かに訪ねたところ、「君が長州人を連れて上京しようとしていることはすでに幕府に通報されている。やめた方がいいぞ」といわれた。

「竜馬がゆく」では大久保先生が大坂城代で、そこに乗り込んだことになっているが、城代は大名がなるもので旗本でしかない大久保先生がそんな役目に就くはずがない。

そこで、薩摩の船印を借りて川舟で伏見へ向かい薩摩屋敷に入った。ここで三吉を連れて行くことは危険が大きすぎるので、寺田屋に預けて京都の薩摩屋敷に向かったのである。

ところが、1月20日になっていま同志社大学になっている二本松の薩摩屋敷へ行ったところ、盟約はまだ結ばれていなかった。それどころか、木戸孝允は接待はされるものの、話し合いもなく待たされているということで、いまさらながら遅参を悔いた。

西郷隆盛 Wikipediaより

木戸と品川は8日に京に着き、西郷らの出迎えを受け、小松帯刀の住まいになっていた近衛家花畑屋敷に入った。現在の同志社大学新町校舎である。桂は毎日、豪華な接待を受けた。だが、盟約へ向けての話し合いは、なかなか進まない。

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