読書というもの

私は前回のブログ『心を養う』で、佳書(…人間的教養を豊かにする古典とか歴史・哲学の書物)を読むことについて述べました。太古の昔より洋の東西を問わずして人間の普遍的真理というものが、書によって伝承されてきているとは実に素晴らしいことだと思います。

読書の効用としては、「世の中には色々な考え方があるもんだ」「こんな経験をしている人がいるんだなぁ」等と、人間の多様性を知るということが一つあります。また、「こういう考え方があるけれども、こういうふうにも言えるのではないか」といった形で、自分の考えを更に深めるということも一つあります。

あるいは、書と対話しながら自分の頭の中で、己をある意味鍛えて行くことも出来ます。従って、ある程度そうした主体性を持って自分自身の確立を目指す人というのは、書が無いと不安にもなるかもしれません。この不安という言葉が適当かは分かりませんが、私自身は強い寂寥感(せきりょうかん)を覚えるものです。

書があればこそ、故人や先哲と会話が出来る喜びが得られ、一種の好奇心が満たされて行く部分もあります。ですから、コロナ禍で自粛を余儀なくされたがため読書をした人とか、コロナ禍でなければ読書しない人などというのは、深淵なる読書の持つ意味を根本的に理解しないで、暇潰しの如く考えているように思われます。

人間、常日頃から様々な書物を読むことが大事です。但し、ジャンルを問わず所謂多読をして後に何も残らないということではいけません。之は、実に詰まらない読書のやり方であります。

やはり、精神の糧になり知行合一に繋がるような書の読み方・選び方が良いと思います。私の場合それが中国古典を中心とした古典なのですが、歴史の篩に掛かった書物にある言葉一つ一つには、深い意味と重みを感じるものです。

それからもう一つ、「著者の主張は尤もだ。この本は良かった」「あぁ、この本も良かった」「これは良い本だなぁ。この人の考えは道理に適っている」等々と、その内容を次々鵜呑みにしてしまうのではいけません。

『孟子』に、「尽(ことごと)く書を信ずれば即ち書無きに如(し)かず」(この場合の「書」は『書経』のことです)とあるように、「書物を読んでも、批判の目を持たずそのすべてを信ずるならば、かえって書物を読まないほうがよい」のです。

何れにせよ読書に当たっては常に、主体的・批判的に、知識欲・好奇心を持って、書に立ち向かって行くことが大事であります。そして書を読む目的たるや、精神の糧にする、ということだと思います。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2021年4月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。