嶋理人さんへの警鐘:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える③

與那覇 潤

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11月3~4日のアゴラへの寄稿に対して(その①その②)、8日に歴史学者の嶋理人さんから「反駁」をいただきました。むろんまっとうな批判であれば歓迎ですが、拙稿に対し「自分だけが正しいかのように思いあがった、酷いもの」・「呉座さんにとっても良くない」・「歴史学そのものへの冒涜」といったレッテルを貼り、さらには上記のアゴラ寄稿以外の、私の言論活動全般にまで「典型的な「トンデモ」」・「もう帰還不能点を越えている」といった罵声を浴びせる内容になっています(上記のカギカッコ内は、すべて原文ママ)。

ワンパラグラフだけ引用すると、たとえばこのような調子です。

「このように與那覇氏の論は、実証が全くなっておらず、断片的情報の無理やりな解釈から、呉座さんを擁護して歴史学者一般をけなす(そして自分だけが偉いのだと威張る)、まったく碌でもない文章です。しかし残念ながら、近年の與那覇氏の文章全般がそのようなものなのです。」

こうした行為こそ、私には「中傷」のように思えます。そうしたやり方を拡散させたくないため、あえて嶋氏の当該記事自体にはリンクを張りませんでした。

嶋氏は「墨東公安委員会」という半匿名のTwitterアカウントを用い、炎上後の呉座勇一氏をこれまで執拗に攻撃してきました。その一端を11月3日の拙稿で採り上げた結果、たとえば以下の池内恵氏のツイートに代表される批判が高まったことを受けて、今回の挙に出たように思われます。

この「墨東公安委員会」氏が、そのハンドルネームのとおりに(?)私の近業を監視し、以下のような一方的な揶揄を寄せていることは、従来から把握していました。私は一般に躁うつ病(躁鬱病)と呼ばれる双極性障害2型の当事者で、病気の体験を踏まえた言論活動を平素行っています。むろん批判は自由とはいえ、こうした表現が示唆するのは、墨東公安委員会=嶋理人氏の人権感覚が、おそらく私とは著しく異なっているということでしょう。

なお嶋氏は、11月4日の拙稿で事実上のネットリンチとなっている点を批判したオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」(4月4日公開)の署名者で、その際には「熊本学園大学講師」としてサインされていました。

嶋理人さんに対して、以下のとおり警告いたします。

・カッとなってつい失礼なツイートをしたり、我を忘れた文章を書きなぐってしまうことは、誰にでもあるものです。「反駁」と称して私を中傷する今回の記事を削除するなら、わずかとはいえ知己を得る仲であったこともあり、一切を水に流します。

・私への中傷を今後とも続けるなら、しかるべき時期に、「実証的」だと自称されているあなたの記事がいかに不公正な手段を用いているか、このアゴラの連載にて批判させていただきます。それはおそらくあなた個人の信頼を超えて、あなたに「実証」というものの意義自体を錯覚させた学問や教育カリキュラム全体についての、社会的な信用を失墜させるでしょう。

・またあなたはお気づきでないようですが、すでに呉座勇一氏(の炎上と訴訟)が提起した問題の焦点は、呉座氏の発言の具体的な内容いかんではなく、「仮に問題発言を行った研究者がいたとしても、ネットリンチのような集団の圧力によってその後にいたるまで発言を封じ、職を奪うことは許されるか」に移っています。したがって、あなたが記事を撤回しない場合、あなたも署名されたオープンレター公表の中枢にいる人々が、「公開2日後の深夜にはネットリンチの懸念を指摘されていたにもかかわらず、その後も署名者リストの公開継続を強行した証拠」を、アゴラにて公開します(連載その②にて予告したとおりです)。

なお嶋さん以外の方が、(この文章を含めて)嶋氏と私との論争(?)をどのように論評されるかは、むろん法に触れない範囲でその方の自由です。ただし、嶋さんにも私にも生活がありますので、たとえば記事の更新ペースやTwitter等でのレスポンスが、その方の希望よりも遅いといった理由で、「やはり嶋は/いや與那覇こそ『言い逃げ屋』だ」のようなせっかちな批判はしないで下さるようお願いします。

與那覇 潤
評論家。歴史学者時代の代表作に『中国化する日本』(2011年。現在は文春文庫)、最新刊に『平成史-昨日の世界のすべて』(2021年、文藝春秋)。自身の闘病体験から、大学や学界の機能不全の理由を探った『知性は死なない』(原著2018年)の増補文庫版が11月に発売された。

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