オープンレターがリンチになった日:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑧

與那覇 潤

Five Buck Photos/iStock

できれば避けたいと思ってきたが、連載第2回で予告したとおり、呉座勇一氏の問題に関して発表されたオープンレターについて、その裏面を物語る資料を公開する。第3回で与えた警告に反して、嶋理人氏(日本史学。熊本学園大学講師)が11月23日夜に、私を中傷する2本目の記事を発表したためである。

当然のことだが、私と同様に、嶋氏にも言論の自由がある。しかし同氏は、それを適切な形で行使していると呼べるであろうか。彼が同日に発した、以下のツイートをご覧いただきたい。

呆れたのはこちらである。そもそも本連載の3~4回目は嶋氏の(1本目の)中傷記事に応答したものであり、5~7回目はそれらの拙稿に言及した辻田真佐憲氏を北村紗衣氏が批判されたことに対して、当方が駁論したものだ。計5回分の連載が書かれる直接ないし間接の原因を作った当事者である嶋氏が、他人事のように「7回も連載している與那覇には呆れる」(大意)とは、どういう態度なのだろうか。

これは単なる、礼儀作法の問題には留まらない。続くツイートで「休日を一日潰して」(原文ママ)書いたと述べている以上、嶋氏が2本目の記事を執筆したのは11月23日(勤労感謝の日)と思われるが、前日にあたる22日の朝6時50分には私の連載7回目が掲載され、全7回分すべてが同氏にも閲覧可能な状態にあった。つまり歴史学者であるはずの嶋氏は、自説を発表するに際して、都合の悪い「先行研究は無視します」と公言しているに等しい。

たとえば私が3月28日の「論座」に発表した記事の内容に「事実誤認」があったのかについては、11月21日朝に公開した連載第6回で、北村紗衣氏を相手に詳細な議論を行った。ところが嶋氏は23日にそれを完全に無視して、與那覇の論座記事が発表時に炎上したのは「なんといっても「事実関係がおかしい」から」・「事実関係誤認によるもの」・「事実認識の誤りに起因するところが大きい」(すべて原文ママ)と一方的に連呼する。

歴史学者を養成するカリキュラムが嶋氏のような人物を生み出す理由については、稿を改めて述べることとしよう。こうした手続き的にも、内容的にも不当な中傷が行われた以上、いかに望まないことではあっても、私は先日の警告に従って行動せざるを得ない。

以下に公開するのはオープンレターの公表当初、私(與那覇)がその人柄を信頼する人物に送付したメール(の一部)である。レターの公開は4月4日であり、メールの送信日時は、当方のタイムスタンプで46日の23:59。なお、メールに特有の「毎行改行」は段落の形に改め、かつ文字列の強調は今回の転載にあたって附したものである(文中のリンクも画像付きに改めている)。

率直に申し上げて、以下の点でこうした署名運動は、問題があるものと考えます。

・A. 呉座氏が行った問題行為という「事実」に関する叙述と、

B. あるべき文化環境という「目標」に向けた提言とを、混在させていること。

・前者Aについて、十分に立証されておらず、呉座氏の名誉を棄損する叙述を含むこと。

・呉座氏との紛争の当事者であった、北村氏が呼びかけ人を兼ねていること。

以上3点です。

まず1点目ですが、圧倒的多数の人は、呉座氏の問題について詳しく知らない、逐一調べてもいないものと思います。全国レベルのニュースになったのは、NHK大河降板の一瞬のみで、しかもその後、当初の情報源となった「まとめサイト」の記述は軒並み非公開に転じましたから、よほど興味がない限り自分では調べないと思います。

Bに関してのオープンレターの提言は見事なもので、(私自身も含めて)多くの人が賛同する内容ですし、実際に多くの人が署名しています。しかし結果として、そうした署名者はAについても(実際に調べたわけではなのに、Bについては賛成だからという理由で)「呉座というのはここで書かれたとおりのことをした人物だ」と、叙述を丸呑みして、事実上の賛意を示すことになってしまう。これは、一種の「抱き合わせ販売」で、公正なやり方ではないと思います。

次に2点目ですが、上記の問題があるにせよそのAの部分の記述が「基本的にすべて正しい」のであれば、「そこまで大きな問題は生じないではないか」という考え方はあり得るでしょう。しかし、このオープンレターの叙述は、遺憾ながらそうとは呼べません。

たとえば「呉座氏自身が、専門家として公的には歴史修正主義を批判しつつ、非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていた」という一節がありますが、この叙述の根拠はなんでしょうか。おそらくこの部分を書かれた方自身が、事実だと主張する自信がないので「かのような」という語を挟んだのでしょうが、それが弁解になるとは少し思えません。

以下は、もともと呉座氏と対立関係にあり、彼からずっと批判されていたらしい著者による、上記の観点から呉座氏を「酷評」しているといってよい文章ですが、

呉座勇一「炎上」事件で考える、歴史家が歴史修正主義者になってしまうということ « ハーバー・ビジネス・オンライン
「陰謀実行の最大の難点は、秘密裏に遂行しなければならないため、参加者を限定せざるを得ないところである」(呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年、49ページ)3月末、日本中世史研究者の呉座勇…

しかしその中でも、挙げられている根拠は、ラムザイヤー支持派のツイートに「いいね」をつけていた、ということでしかありません(Twitterの「いいね」は元々「お気に入り」という名前で、単なるブックマークとして使う人も多かった機能です)。

しかも、たとえば呉座氏がいいねをつけていた池田信夫氏は、対立党派からしばしば「歴史修正主義」と呼ばれることのある識者ですが、ラムザイヤー論文に関しては、明白な「否定派」です。

少なくとも「慰安婦問題で呉座は歴史修正主義者だった」というのは、上記の二重の意味で、まったく根拠のない主張と言わざるを得ません。

こうした、個人に対する名誉棄損を構成しかねない記述を、「いやいや。女性差別を生みやすいメディア環境を正していこうという、提言全体の趣旨はすばらしいから」ということで、フェミニズムの理想とバンドルして拡散し、署名を募ることに、正義があるとは考えられません。

上記をご理解いただければ、3点目の問題性は自明だと思います。北村氏が署名者として、純粋なオープンレターを出すのみであれば、それは今回の問題についての見識を「発信」する行為ですが、その文面に紛争の相手を(事実に反して)非難する文言を入れ、さらに賛同者の署名を募るとなると、それは事実上、私刑に近い形で「報復」を行っていることになります。

もちろん呉座氏は北村氏に謝罪していますが、当然のことながら「非を認めた相手に対してなら、どんな攻撃をしてもいい。だって悪い奴なのだから」といった論理は、法治国家のものではありません。

もしよろしければ上記、ご再考を賜れるなら幸いです。私の考えでは、オープンレターとしては十分価値のあるものですから、署名者の一覧表示の部分に限って、掲示を停止・削除するべきと考えます(今回は指摘を控えますが、正直、署名者の中にも明らかに問題のある――私欲で呉座氏を貶そうとして加わっていると思われる方もいます)。

私なりの自負を記せば、10月下旬に呉座氏の(日文研に対する)訴訟が報じられて以来、にわかに高まった「オープンレターのどこに問題があったのか」についての議論は、この4月6日のメールでほぼ尽くされていたと考えている。送付した相手からは翌7日の午後に、「間違いなく呼びかけ人にこのメールの趣旨を伝える」(大意)との旨の返信があった。

なお私の手許には、①このメールでの指摘がオープンレターの呼びかけ人たちの(少なくとも)一部に実際に届いたことと、②その20名弱の呼びかけ人のあいだでさえ、レターを「署名運動としても活用するのか」について全員のコンセンサスがなかったことを証明する資料が残っている。プライバシーとの関連があるため、それらをオンラインで公開することはしないが、今後もし司法機関等に要請された場合は速やかに提出する。

さて、4月6日の時点でそのように振る舞った私に対し、嶋氏は11月23日の記事でもなお、オープンレターが呉座氏の解職につながったとする指摘は「ただの結果論ではないでしょうか」(原文ママ)と居直っている。さらに、本連載の1回目で批判した4月2日の日本歴史学協会の声明については、なんと「巧遅より拙速を貴ぶべき局面であるとの考えからこの声明を支持しました」(同。強調は引用者)と表明する。

他人(この場合は呉座氏)を集団の力で非難する際に「拙速」でもかまわないというのは、リンチの肯定にも通ずる驚くべき倫理観(の欠如)であり、正しく言い逃げ屋の本領を発揮するものといえよう。

事実、呉座氏の訴えによれば、日文研が同氏のテニュア内定を取り消したのは8月であり、(その判断の当否は措いて)呉座氏のツイート内容の精査に4カ月以上はかけたものと思われる。それに対し炎上の発生からわずか半月の、ネット上が興奮状態にあるさなかに同氏を集団の力で「拙速」に非難してもかまわないとする感性は、事実の確定(実証)を旨とする歴史学者にふさわしくないのはむろんのこと、市民として求められる遵法精神を欠いているという他はないだろう。

そしてより重大なことに、言い逃げ屋は(一署名者としてオープンレターに加わっている)嶋氏のみではない。現在の同レターの呼びかけ人欄(右側)と、より以前に撮影されたと思われる左側のスクリーンショット(オンライン上に複数残っている)を、見比べていただきたい。

(左)以前の呼びかけ人欄 (右)現在の呼びかけ人欄

五十音順で津田大介氏のひとつ下に掲示されていた、「礪波亜希 筑波大学准教授」の氏名が呼びかけ人から削除されていることに気づくだろう。20名弱の呼びかけ人から1人が「降りる」というのは、署名運動の正統性にとってかなり重大な事態と思うが、それに対する説明は現状、オープンレター上には一切記されていない。

礪波氏は、学術会議問題で全国紙にロングインタビューが掲載される程度には、影響力のある識者だ。彼女の名前を見てサインすると決めた署名者も(あるいは彼女自身に勧誘されて署名した人も)、いたかもわからない。そうした人物が公の場での説明抜きに、黙って呼びかけ人から名前を削りレター上から姿をくらますということが、許されるのだろうか。

いまやこの4月4日のオープンレターが、呉座氏を標的とする事実上のネットリンチであったことは、着実に周知の前提となりつつある状況だ。リンチに加担した格好となる一般の署名者にとっては「デジタルタトゥー」(=電子刺青。オンライン上から消せない刻印)になってしまったとの評言さえ、広く聞かれるようになっている。

オープンレターの主宰者たちは、呼びかけ人からの離脱すら(なし崩しに、読者の目から隠して)容認している以上、少なくとも1316人の一般署名者に対しても「署名の撤回を受けつける」旨を公に告知し、撤回希望者の氏名をレターから削除することに応じるべきだろう。それが「言い逃げ」ではない形で社会運動を行うものとして、最低限担うべきモラルである。

もしそうした当然の配慮がなされないのであれば、4月4日のオープンレターは、この国の学者・言論人・出版人たちの「いまさえよければ」な短慮と責任放棄の記念碑として、オンライン上で恒久的にその愚行を留めることとなろう。それが学問や言論の名を掲げながら、SNS時代のなかで実際には「言い逃げ」の専門家へと転じていった人々を待つ、唯一の運命である。

(付 記)

オープンレターの呼びかけ人である津田大介氏が11月24日に、自身のネット放送で拙論に触れていたことを知った(リンク先の2時間1分頃から。現在はメンバー限定配信)。自らも批判されている話題をあえて採り上げた点には敬意を表するが、津田氏の私に対する反駁は論点が転々として要を得ない。

本稿に資料を示した通り、私は呉座氏に揶揄された側の被害を蔑ろにしたことも、レター表明の自由を否定したことも一切なく、署名活動と組み合わせてネットリンチ的に運用することを一貫して問題としている点、改めて確認しておく。

【追記:12月10日】

本記事で批判した礪波亜希氏から、12月9日夜に公式な回答と丁寧な事情説明がなされた。私としては(少なくとも現時点では)真摯に書かれたものとして受けとめたいと思う。私の批判記事の読者は、ぜひ中立的な視点で、礪波氏の回答も併読された上で、双方に対して当否の判断を下されたい。

また連載第4回の末尾で述べたとおり、私は人間は誰もが誤りうる存在であり、むしろ自身の失敗や問題点を認めて立ち直ろうとする人を、社会は支援するべきとの考えに立っている(したがって呉座勇一氏の誤りについても、一貫してその立場で言及してきた)。読者各位には礪波氏に対して、穏当な論評の範囲を超えた揶揄や個人攻撃等を決して行われることのないよう、強く要請する。

與那覇 潤
評論家。歴史学者時代の代表作に『中国化する日本』(2011年。現在は文春文庫)、最新刊に『平成史-昨日の世界のすべて』(2021年、文藝春秋)。自身の闘病体験から、大学や学界の機能不全の理由を探った『知性は死なない』(原著2018年)の増補文庫版が11月に発売された。

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