デジタル通貨の行き着くところ

バンクーバーで電車バスを利用するにはコンパスカードというSUICAのようなカードを利用します。チャージは自分でウェブにアクセスしクレジットカードで支払うのが主体ですが、駅の自販機で現金やクレジットカードでもチャージできます。これは便利なのですが、交通費が一体いくらなのかわからなくなるところが弱点。特に当地ではピークタイムとオフタイムの値段が変わるのですが、案外、地元の人に聞いても「さて、いくらだったかな?」と返事がきます。

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トロントではPRESTOというカードがあり、他の主要都市にもそれぞれ独自の交通カードがあります。何が便利といえば知らない街でいちいち、金額をチェックしなくてもよく、ピッとやれば乗れるのは実に助かるのであります。その間、現金が顔を出すことはまずありません。日本でも若い人を中心に現金を使わなくなっているかと思いますが、私も中国人経営の「現金のみ」という店以外では現金を使うことはまずなくなりました。

飲み会でも日本では割り勘ソフトなどがあるようですが、こちらではサーバーが「お会計はどうしますか?一括ですか、個別ですか?個別の場合、どう支払いますか?」と聞いてくれます。つまり、日本は顧客側がいろいろやり、友達同士でお金を送り合ったりするのだろうと思いますが、こちらでは店側がそのようなサービスを提供してくれるのです。

世の中、デジタル通貨に驀進しているような報道を見受けられますが、私からすれば実質的には既に多くの方がすでに何らかのデジタル通貨の恩恵を受けているとみています。

一方、暗号資産については意見が様々な飛び交っていますが、アメリカで影響力ある銀行家や政治家からは割とネガティブな声が聞こえてきます。例えばヒラリー クリントン氏が「国家にさらに関心を強めてもらいたいのが仮想通貨の台頭だ。… 基軸通貨としてのドルの役割を弱め、国家の安定を揺るがすかもしれない。そうした力は恐らく初めは小さいが、巨大なものになっていくだろう」と懸念を表明しています。これはユダヤとして米ドルの基軸通貨を守るというポジショントークであることはたやすく想像できます。

ところで最近気になっているのは「暗号資産」という表記から「仮想通貨」に戻っているケースが増えている点でしょうか?メディアも暗号資産と仮想通貨の表記はまちまちになっています。私は「資産」と「通貨」の違いに意味がある、と申し上げました。金は資産になるけれど通貨にはなりません。ビットコインも実質的には通貨にはなりえないのです。理由は値動きです。通貨は価値の安定が絶対条件なのです。その点での使い分けが重要であることがまだ一般市場で理解の浸透が進んでいないと思います。

さて、私が考えるデジタル通貨の行きつくところです。それは個人資産の決算書が自動的にできる時代が10年後にはやってくるだろうという点です。すべてのお金のやりとりがデジタル化された場合、個人の入出金は完全に掌握できます。それは決算書でいう損益計算書やキャッシュフローだけではなく、貸借対照表までできてしまうのです。これは実は恐ろしい事実が含まれています。

例えばこのシステムが完成すれば個人の信用度をチェックするのにマイナンバーカードをパソコンに入れるだけで全部数字で出すことが可能になります。家や自動車を買おうと思い、ローン可能額を見たい場合、今の自分の資産が全部勝手に合算され、資産と負債からローン可能額が自動的に瞬時に算出されるのです。今の銀行のヒトの手間をかけた与信審査など全く必要なくなります。

カナダの個人の確定申告をソフトウェアで行うには民間のソフトウェア会社と税務当局をリンクさせることで行います。すると収入や資産の全ての動きがいったん、税務当局に集まるのでそこから民間のソフトウェアにその個人の分だけ情報移行させることでウソ偽りが出来ない自動納税申告システムが瞬時に完成するのです。(日本では倫理的に逆立ちしても作れないと思います。)

これを少し応用し、証券や不動産などの個人資産情報に現在価値情報を照らし合わせることで含み資産まで計算し、相手の与信度を計測することは物理的にはいつでもできる状態にあります。

これにより個人への過剰融資が出来なくなり、個人破産を防ぐ機能を備えることも可能になるといえるでしょう。但し、それが楽しい世界かどうか、それは私にはまだ想像できませんが。

私は既に現金VSデジタルという議論は終わったと思います。もちろん、現金は月に1万円相当は使います。しかし、少なくとも北米では補助通貨のようなものです。大体、誰が触ったかわからない現金を触りたくないという気持ちもあります。それよりもデジタルがもたらす社会への影響、そこに話をフォーカスしていくべきなのでしょう。

かつて街中にあった公衆電話が一気に無くなったように銀行のATMは急速に消えていく運命にあるはずです。スーパーのレジ係は袋詰め係になり、その需要も減っていくでしょう。現金強盗は消え、ジュラルミンケースが何か、子供たちは全く知らないでしょう。

これは残念ながら時代の変遷であり、懐古主義があったとしてもそれはマイナーな形でしか残りえないのであります。時代の変化はそれぐらい加速度をつけてきた、ともいえそうです。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2021年11月29日の記事より転載させていただきました。