オープンレター・ディストピアを排す:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える・完

與那覇 潤

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掌編小説の名手として知られた星新一の、SF作家としての代表作に『声の網』という長編(連作短編)がある。現行の角川文庫版の解説で恩田陸氏が書いているとおり、初出が1970とは思えない今日的な作品だ。

いま風の語彙でまとめれば、AI+ビッグデータがあらゆる国民の「秘密」を握り、それを公開するぞと脅して人々の行動を操ることで、究極の管理社会が生まれるという寓話である。今日との違いはインターネット以前のために、情報収集と脅迫が「電話」の盗聴を通じてなされることだけだ。

どんな人にも恥ずかしい失敗、性愛にまつわる挿話、自分でも美しいとは思わない怨恨など、法に反してはおらずとも「心を許した人以外には言えない秘密」はあるものだ。それが社会全体を挙げて当人を攻撃し、服従させる道具へと変じたときの怖さを、以下のような文明評論とともに『声の網』は描いている。

「むかしの社会は、なんによって成立していたのだろう。〔……〕それは、秘密だったのかもしれないと。秘密の上に愛情の花が咲き、友情の葉がしげり、信用や評価がさだまり、取引きが運営され、政治がなされ、文化が伸び、社会のまとまりが存在していた。なにもかも秘密の上にのっていた。

秘密は内部にあるべきもの。だが、その境界がいつのまにかぼやけてきた。クラインの壺のように、内部と思いこんでいた部分がいつのまにか外部となっていて、とめどなく拡散してしまった……。」

呉座勇一氏が1年半弱のあいだ、自身が嫌う女性学者を仲間内で揶揄していた行為は、犯罪を構成はしないにせよ褒められたものではない。被害者に指摘されて謝罪するのは当然のことだし(3月20日)、そうした姿は一般に、他人に見られて恥ずかしいものではあるだろう。

ところが上記の経緯が明るみに出ると、「恥ずかしいことをやらかした人に対してなら、なにを言おうが言い返されることはないから」とばかりに、事実に反する内容まで加えて呉座氏を誹謗し、「こうした事例を二度と生まないために」と称して、自らの主義主張の宣伝に使う動きが現われた。問題点を一覧できるよう連載前回にまとめたとおり、4月4日に公表されたオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」がそれである。

私は公開2日後の4月6日深夜にはすでに、同レターが呉座氏への不当な中傷となっている点について関係者に警告を発したが(連載第8回)、それを知ってなお居直る識者も少なくない。一例として、最も長大なレター擁護論を発表した署名者の嶋理人氏(日本史。熊本学園大学講師)は、11月23日の段階でもこう主張する

ここで述べられている論理は2つだ。まず①立証されていない(事実無根の)行為であっても、あたかもそうである「かのように」周囲から見えただけで、その人を攻撃してよい。次に②本人自身ではなくその周囲に存在した「界隈」――交友関係に対する非難を、本人への批判と混淆させ、「叩かれるのが嫌ならあいつ(ら)と縁を切れ」と要求してよい。

こうした基準で他人を非難することが公認された社会は、潜在的には誰もがオープンレターの対象とされうるディストピアであり、いわば人力で運営される『声の網』に他ならないが、それがわからない人もいるようだ。いまのままでは明年以降も同じ論理を振り回すのだろう、そうした人が問題に気づくためには、論理的な説得よりも寓話の力が必要なのかもしれない。

そこで本連載の最後では、仮にこうしたオープンレターを支える論理が「レターの発し手自身」に適用された場合に何が起きるのかを、架空のifとして示しておこう。

加害者として呉座氏の名を14か所(「彼」等の表記も入れると18か所)も挙げて連呼するオープンレターには、もう一人だけ個人名が登場する。同氏による揶揄行為の被害者だった、「さえぼう先生」の愛称でも知られる北村紗衣氏(英文学。武蔵大学准教授)だ。

北村氏は本連載に不満だったようで、11月3日の初回掲載時から「全否定」に近い感想をツイートしていたが、そのコメント欄で彼女と会話している、レター署名者の小檜山青氏という人物がいる。北村氏はフォロワーが4万人を超す人気アカウントゆえに多数のリプライがあるが、(現状で確認できる範囲では)応答したのは小檜山氏に対してだけだから、オンラインではそれなりに親しい関係のように思われる。

この小檜山氏の人柄は、同氏が3日後の116日に掲載したNote記事から察することができる。現在は「その人のために私たちができること」とのタイトルになっているが、公開時の氏のツイート(同日付。写真保存済み)を参照すると、当初は「呉座先生のために」云々と銘打っていたものを、検索避けのためにか改称したようだ。同記事から、私(與那覇)に言及した部分を以下に引いてみよう。

「論座」に断られたなる事実無根の創作や、情趣を狙った「法螺貝」の比喩、一切の根拠を超越した「動機」の断定など、なかなかの知性の持ち主であることがわかる。同氏は「武者震之助」という別名義でも執筆しており、そのルーツを探った考察記事(後述)の推測が正しいなら、歴史作家を目指した際には雇用契約書を含む会社の反故紙の裏に印刷して新人賞に投稿するなど、大胆な活動をした過去もあるらしい(ただしこの点は、特定するには担当編集者の証言が必要となろう)。

もっともSNSでガラの悪いファンがついてしまうのは、呉座氏の例も含めて多くの著名人に起きがちな事態だから、この一事をもって北村氏を責めるならおかしなことだ。

しかしこの小檜山氏がもし、意図的に呉座氏の失墜を謀って北村氏に各種の情報を提供した人物であったとすれば、おそらく見る人の印象は大きく変わるであろう。

連載第7回の追記でも指摘したが、自らは読む権限のなかった呉座氏の鍵アカウント内での発言内容を、どのようにして把握したのか、北村氏の説明は一貫していない。炎上の契機となった左のツイート(3月17日)と、本連載への反論として記された右のツイート(11月23日)を対照すれば、両者が矛盾することは誰の目にもわかる。

三柳遼一氏(私は面識・交流はない)が9月8日に掲載した記事によると、北村氏のいう「複数の信頼できる筋」ないし「知らないとこ」――Twitter上での交流から推量すると、前者の可能性が高く思われるが――の内には、かなり高い確度で小檜山氏が含まれているようだ。三柳氏は、5月4日に「足軽大将」なる筆名で行われた以下のような投稿の著者を、多様な傍証から小檜山氏と推定している。

元・歴史学者として留保をつければ、三柳氏が「足軽大将と小檜山青氏が同一人物だ」と特定する上で、「文体の類似」を挙げるのは十全の根拠とまでは呼べない。しかし炎上の契機となった網野善彦をめぐる論争のなかで(連載第6回を参照)、北村氏が以下のとおり主張したように、「文体」がその著者の内実を推定する上で、かなり有力な論拠であることは事実だ。

さてSNS上での呉座氏の交友関係のうち、嶋理人氏らオープンレター擁護者によって特に批判されている人物に、「白饅頭」の異称を持つ御田寺圭氏がいる。私は同氏についてよく知らないが、(北村紗衣氏も寄稿する)現代ビジネスなどメジャーな媒体でも書いているほか、スタジオジブリの月刊誌『熱風』の連載初回は普通の政治評論だった。御田寺氏にも北村氏への非礼な言動があったなら、むろん本人が謝罪すべきだが、交際自体が咎められるべき反社会的な勢力と呼ぶことは困難に思われる。

一方で上記の小檜山青氏は、「武将ジャパン」というサイトでの執筆を主業とする歴史ライターのようだ。それ自体は結構なことだが、8月以来の三柳氏の追及によると、同サイト上では別名義で史実を無視した煽り記事を頻繁に書いているほか、人脈作りのためにか粗雑な礼賛書評を濫造しており、それらを通じて後に呉座氏の炎上に関与する複数名とも接点があったという(事件直前の2月末には、北村氏の主著を絶賛していた)。

むろん三柳氏による小檜山氏への批判には推測が含まれ、絶対に確実とは言い切れない部分が残る。また本人ではなく「その人の友人」の言動を根拠に批判するのは、本来は誰に対してであれ、不当で礼を失した振る舞いだ。

しかし先述した嶋理人氏の論理①②に示されている、オープンレターの文面を正当化する主張をひとたび受けいれるなら、呉座氏による揶揄の被害者だった北村紗衣氏に対してさえも、「歴史修正主義のライターに同調するかのような交友」や「公的には知らない相手から送られたと主張しつつ、実際には共謀していたかのような振る舞い」を、非難してもよいことになってしまう。

もしそうした世論がオンラインで高まるなら、「呉座勇一氏と北村紗衣准教授の揉め事について」にまとめられている、網野善彦をめぐる不特定多数での論争が呉座氏個人の批判へと転じたプロセスも、従来とは違う印象で口の端に上り出すだろう。やはり文体面(主に使用語彙)からの考察に基づき、オープンレター後半部の著者を北村氏自身だと推定するネット上の議論がどう読まれるかも、変わってくる。

北村氏が以下のツイートで正しく指摘するとおり、友人関係や集団の空気に影響されて不適切な言動をしてしまうリスクは、いまも昔も、誰にでもあったろう。近日生じた変化はむしろ、そうした事態に対して「誰がどの程度、いかなる責任を負うべきなのか」を吟味して切り分けず、気に入らない面子ごと一緒くたに叩き潰す営為を正当化する学者や言論人が、あまりにも増えたことだ(連載第11回)。

そのようなネット社会の現状を前提としつつ、もしも仮に呉座氏および「界隈」を批判した4月の文面と同じ論理に依拠して、北村氏とその「界隈」に属する小檜山氏らを非難する新たなオープンレターが出ることになったらと想定してみよう。まずもって間違いなく予測できるのは、両方に署名する学識者が相当の数、出現することである。

4月のオープンレターは内容と運用の両面で、致命的な問題を指摘され呼びかけ人からの離脱者も出しながら、サインした1316名に対してはいまも「署名の撤回」を公に受け付けていない。退くに退けない状況の署名者たちにとって、非難の矛先を正反対に転回した「カウンター・オープンレター」に署名しなおすことは、いまやほぼ唯一といってよい自己保身の手段となるからだ(連載前回も参照)。

さて、そして学者の世界に限られない真の問題は、その先にある。他人の秘密を握った立場からの脅迫・強要と、同じ論理を逆手に取った報復とが繰り返されるSNS版の『声の網』のような社会に、はたして私たちは住みたいだろうか。

私自身の答えは、むろん明白だ。誰かが過失を機に他の誰かに一度支配されたら、類似の報復を相手に「やり返す」ことでしか復権できない社会よりも、誰もが自らのうちに秘密や失敗や問題を抱えつつ、常に「やり直す」機会のある社会を選びたい。

来年1月14日に辻田真佐憲氏と並び、呉座勇一氏を迎えて鼎談する学術イベントを引き受けたのは、視聴者とともに「誰もがやり直せる」空間を作ってゆく試みとしてである。

呉座氏の地位確認訴訟を含めて、登壇者3名の活動に対する不当な誹謗や妨害が今後なされないかぎりは、当方から本連載の続きを壇上へ持ち込むつもりはない。

2021年の頭から繰り返された、主に東京五輪の関係者をめぐる辞職の連鎖によって、今年が日本の「キャンセル・カルチャー元年」になったとする評価は一時期、かなり広く聞かれた。呉座勇一氏の事実上の「解職」もまた、同じ流れに乗って一部の学術関係者が起こした事件だったが、彼ら彼女らの内実が単なる言い逃げ屋に過ぎなかったことは、この秋から本連載を追いかけて下さった読者には自明と思う。

確かに今年は、日本人にとって「キャンセル・カルチャー」の最初の年であった。

しかし私たちが望めば、同じものをむしろ「最後の年」として、まもなく始まる2022年を迎えることができる。そして自信と希望を持っていま記すが、言い逃げ屋や脅迫者の跋扈を望まない多くの市民はその決断を下すだろうし、かつそうでなければならない。

(完)

與那覇 潤
評論家。歴史学者時代の代表作に『中国化する日本』(2011年。現在は文春文庫)、最新刊に『平成史-昨日の世界のすべて』(2021年、文藝春秋)。自身の闘病体験から、大学や学界の機能不全の理由を探った『知性は死なない』(原著2018年)の増補文庫版が11月に発売された。

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