「キリスト教文明は行き詰まっている」発言を考える ー中川信博ー

2009年11月17日 09:00

民主党小沢幹事長が「高野山は日本人の原点。キリスト教を背景とした西洋文明は行き詰まっている。仏教は人間の生き様を原点から教えてくれる」、「キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと私は思っている」と高野山真言宗松長有慶管長に発言したと報道がありましたが、松本さんも本件の政治的問題点をエントリーされましたが、私は別の視点で考えてみたいと思います。


ーイエスはキリスト教を布教していないー

イエスはユダヤ教の改革者としてユダヤ宗教ーイエスの時代のいわゆるユダヤ教。特にファリサイ派のような律法原理主義者。エズラとネヘミヤによって再興されたユダヤ教でそれ以前のイスラエルの宗教と区別をしているーを非難していました。

マルコの福音書でイエスが取税人や罪人と食事をしたことをファリサイ派が非難しますが、イエスは

「自分が来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くためだ」

といいます。イエスは人間を蔑視ー罪人とか取税人とかーするファイリサイ的律法解釈を否定します。

またイエスが安息日に片手のなえた人を癒したときもファリサイ派は非難をします。安息日に労働をすることは律法でかたく禁じているからです。しかしイエスは

「私が来たのは律法や預言者を廃止するため、と思ってはならない。廃するためではなく完成するためである」

といいます。イエスはこのように律法を目的実現の道具にするファリサイ派ーようするに当時のユダヤ教ーの独善性を非難していたのです。

ーイエスの救いの実践とキリスト教の教義とは関係がないー

イエスは復活することによって救世主ーキリストーとなり、そして神の教えを説いたのですが、エレサレム教団の人々はイエスを説きます。ここにキリスト教団が誕生しますが、イエスの教えとエレサレム教団の教えには決定的な相違が起こります。それはイエスは神の教えを説いたのですが、教団はイエスの教えを説いたことです。それでも初期のキリスト教教団は貧しい人に職や仕事、食べ物を与え、病める人を癒す、職業安定所と病院のようなイエスの行った人への救いの活動をしています。

ファリサイ派はそのようなイエスの教えを信じるものをその後も迫害しますが、その迫害者の一人パウロは回心をしてキリスト教徒になります。パウロは

「人が義とされるのは律法の行いによるものではなく信仰による」

とローマの使徒への手紙に書いています。パウロは

「人の善悪や人の判断や努力でなしうることは神の助けは必要としない。そして人は完全ではないから、努力ではなしえられないことがある。よって神に義(無罪)と宣せられる以外に救われることはない」

と気づくことが信仰であるといったのです。しかしそれはパオロの気づきであってイエスの教えとはいえません。パオロが「キリスト教の創始者」といわれる所以であります。

このように社会的弱者を中心にひろまった「キリスト教」ですが、異邦のギリシャ世界の教養人たちに対し、弁証法的に説明する必要性から、アレキサンドリア学派がキリスト教とギリシャ哲学の統合を始めます。しかしその後はキリストや聖書の解釈をめぐり論争が始まり、各教会では対応しきれなくなります。そこでローマ皇帝は第一回ニカイア公会議を召集します。この会議でアリウス派が異端となります。

さらに392年にキリスト教がローマ帝国の国教となったのちは、いよいよ帝国内の異邦人にキリスト教を布教する必要から、弁証法的教義確立が急がれ、アウグスティーヌスは依然根強いアリウス派を排除するため、新プラントン主義的三位一体論を確立します。このようにキリスト教における「教義」とは教会の公会議で議論決定されて、権威を与えられた理論のことをいいます。ですからイエスの行った救いの実践と現在の教義はある意味、関係ないといっても過言ではありません。

ー一神教は排他的で悪、多神教は寛容的で善なのでしょうか?ー

小沢幹事長のいう通り、確かにキリスト教やイスラム教の特定の宗派は原理主義といわれ、排他的なところがあるように思え、多神教であるギリシャやペルシャの神話の世界は寛容的といわれています。また日本の神道はあらゆる宗教を受け入れて今日があるようにみえます。神道は多神教でありながら一時期、国家神道として排他的になったという指摘もあります。古来からの古神道と近代国家神道の相違は、アミュニズム的な曖昧さを排除してキリスト教的になったということのようです。ー余談ですが、私は明治政府の二大愚策は、一つが明治憲法に大陸法を入れたこと、もう一つが天皇陛下(スメラミコト)に軍服を着せたことだと思っています。ー

では小沢幹事長のいう通り仏教は寛容的なのでしょうか。仏教ほど宗門宗派の分裂している宗教はないでしょう。小沢幹事長は松長有慶管長にリップサービスとしてキリスト教は排他的、仏教は寛容的と暗にいったのでしょうが、非寛容性にかけては仏教諸宗諸派がその宗門宗派の数だけ他を圧倒して非寛容ではないでしょうか。とくに法華経と浄土宗(真宗も含む)の歴史的論争は既知であります。

ー聖者は宗教を創らずー

以上のように一神教、多神教と排他的、寛容的という分類は無意味のように思えます。ー小沢代表が仏教を多神教と分類しているのかは不明ですがーむしろ一神教にしろ多神教にしろ寛容、非寛容はそれを人間が人間に強制しようしたところに現れる現象ではないかと感じられます。人間が神(仏)を目的に利用しようとする現象が寛容、非寛容ではないでしょうか。

モーセは十戒を預言をします。しかしユダヤ人はその契約を破り国を失います。モーセは神の言葉を伝え、それを破ったユダヤ人は追放されます。モーセはイスラエルの宗教を創っていません。言葉を伝えたのです。まして、いわゆるユダヤ教を創ってないことは前述しています。釈尊も仏教を創ってはいないことはお分かりでしょう。しかもこんなに分裂した教団を創っていません。

イエスもムハンマドも同様だということは容易に気が付かれるでしょう。宗教を創造したのは人間なのです。モーセの教え、釈尊やイエス、ムハンマドの教えとその教団の教義とはあまり関係ないといっても過言ではありません。イエスや釈尊は病めるものを癒す外科か内科、精神科医のような活動をしてますし、ムハンマドは現世で商売を成功させてその教えを弘めています。

ムハンマドは人種、国籍、男女、身分、階級、貧富、宗教などの差別を取り除く法を創ります。その法典をコラーンと呼んでいます。さらにユダヤ教、キリスト教を「経典の民」と呼んでその一神教どうしの争いを禁じています。

ーちなみにイスラムにおける預言者の1番目はアーダム(アダム)、3番目がヌーフ(ノア)、6番目がイブラヒーム(エイブラハム)、7番目がイスマーイール(イシュマエル、エイブラハムの第2妻の子、アラブ人の祖)、8番目がイスハーク(イシャク、エイブラハムの正妻の子、ユダヤ人の祖)、24番目がイーサー(イエス)、25番目がムハンマド、結局ユダヤ教徒、キリスト教徒との争いは兄弟ゲンカのようなものー今日の紛争は宗教を理由にした人類の勝手な争いなのです。ー

ー人類の向かうべきところー

ここまで小沢幹事長の言動から長々と考えてきましたが、小沢幹事長がいったキリスト教文明は行き詰まっているということは別の意味でそうなのかもしれません。ーもちろん排他的だからという意味ではありませんーそれはここまでに論じたとおり、人類が勝手にイエスの説いた教えを理論化して人間の都合のいいように変えてしまったことです。三大宗教教団は人間が創造したものといっても良いと思います。それを目的達成のための道具としていることが、人類の罪なのかもしれません。

今、人類に必要なことは宗教という人知で考案されたー意味論的な叙述ー教義によるのではなく、マイケル・ポランニーが提示した「暗黙知」の世界に入り、イエスや釈尊、ムハンマドの知(思い)に住み込みーいやなりきることー、人類が同時にイエス、釈尊そしてムハンマドになってしまうことこそが、真の平和実現には不可欠なのではないでしょうか。当然ですがこれを人類が短期間に行なわなければなりません。なぜなら一国だけでは、チベットのように隣国に蹂躙されてしまうからです。

私はこの役目は日本人にしかできないのかもしれないと感じております。

参考文献
新約聖書
キリスト教の歴史  小田垣 雅也著
預言者ムハンマド 鈴木 紘司著
知の暗黙の次元 マイケル・ポランニー著
ビジネス・インサイト―創造の知とは何か 石井 淳蔵著

付記
本稿は聖者の行った救いの実践を賛美し、その教えから逸脱してしまった人類を意味論的に考察したもので、宗教教団やその教理教義を非難することを目的としていないことを付記いたします。

2009.11.17.11:00 一部改訂と付記

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