今こそ必要な内田樹先生の正しいおじさんの思想:ためらいの倫理学

森喜朗さんの女性差別発言で注目されたジェンダー問題。森さんの発言は問題ですが、あらゆる個人の問題にまで波及しているのには驚きます。(例えばAERA 2021年 3/15 号 家庭とジェンダー特集「森喜朗と一緒」と妻に言われてわかったのは「話し合いの大事さ」)

そんな難しさを指摘したのが、2001年に出版された「ためらいの倫理学」でした。このとき、衒学的なポストモダン思想やフェミニズム運動に対して、「正しいおじさん」としての論陣を張ったのが内田樹先生でした。なんでもかんでも社会を糾弾する大学構内の進歩的な活動家に対して「それはちょっとちがうのでないかい?」とカウンターを放ちました。その独特の語り口のスタイルも相まって、時代の寵児になったのでした。

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「正義の人」フェミニストたちへの違和感

私は(その頃はまだ素直な心が残っていたので)さっそく上野千鶴子やジュリア・クリステッチやリュス・イリガライの本を読んだ。すると、そこには「男性は「男権主義イデオロギー」にどっぷり漬かっているが、女性は抑圧される側なので、かかるイデオロギーからは自由であり、それゆえ男性よりも世の中の仕組みがよく分かる」というどこかで読んだことのあるロジックが書いてあった。

性差による社会的不平等があるという事実は、内田先生ももちろん認めています。そして、女性だからという理由だけである種の社会的に不利益を被ってはいけないことも、認めています。その上で、以下のように述べます。

しかし、社会的な不平等があるということと、「被抑圧者である女性にはこの間違った世の中の仕組みがよく見えており、特権享受者である男性には、世の中の仕組みが分からないようになっている」ということは論理的にはつながらない。

さまざまな社会的な不合理を是正して、世の中を少しでもよくすることができるのは、「自分は間違っているかも知れない」と考えることのできる知性であって、「自分は正しい」ことを強調しようとする知性ではないのです。

性差別はどのように廃絶されるのか

「自分には分からない」というのが、知性の基本的な構えであると内田先生は思っています。

 「私には分からない」「だから分かりたい」「だから調べる、考える」「なんだか分かったような気になった」「でも、なんだかますます分からなくなってきたような気もする・・・」とぐるぐる回っているばかりで、どうにもあまりばっとしないというのが知性のいちばん誠実な状態ではないかと私は思っているのである。

ここで①それがたいへん複雑で分かりにくい問題であることと、②この「複雑で分かりにくい問題」を「簡単で分かりやすい問題」だと勘違いする人々のもたらす害毒の2種類があって、後者の方の害毒がより大きいと言います。これはピースミール社会工学と批判されるものでもありますが、昨今のように個人の問題をなんでもかんでも社会のせいにしようとするラディカルな主張に対しては、とても有効だと思います。

そして、「男女共同参画社会」を提言する人々も、それに反対する人々も、「性差の仕組みは単純なものであり、私たちは性の仕組みについて熟知している」と主張する点ではとてもよく似ています。

残念ながら、私はそのような前提を共有することができない。なぜなら、私は性差についてよく知らないからだ(「ほとんど何も知らない」と断言してもよいくらいだ)。

このような議論の場では、「女性性とは何か?」「だいたい男らしさとは何のことなのか?」「真に性的差異から解放されるとはどういうことか?」といった、決して私たち全員が合意に達することができない議論が延々と繰り返されるはずだと指摘します。

知らないということを認めるのが知性

そしてこの問題に明確な答えを示しうる人間を指して、こう言います。

「「私は賢い」と思い込んでいる奴はバカだ」という命題があるとする。この命題は経験的にはかなり多くの場合に妥当する。その結果、「『私は賢い」と思い込んでいる奴はバカだ」主義というものが成立したとする。そして、その「バカだ」主義者(めんどくさいから省略するね)が「バカだ主義は卓越した学知だ」と言い出した場合、周りの人はそれをどういうふうに眺めるだろう、ということである。

議論がメタ的でちょっとずるい気もしますが、党派的になりすぎている昨今の男女間の対立を鎮めるには必要な視点ではないでしょうか。

そして20年の時は流れて

けれども、さいきんの論考で内田先生は、こう書いています。

そのときの官房長官がいまの総理大臣です。独裁、ネポティズム、対米従属、新自由主義・・・。反知性主義という政権の「後進国的」体質は総理大臣が変わっても、ほとんど変化しませんでした。むしろ反知性主義的な傾向は一層強化されているような気がする。

反知性主義という言葉を使うと、たちまちこめかみに青筋を立てた人たちがわらわらと登場してきます。そして、「オレのことを言っているのか」とか「お前はいかなる資格があって、他人を知性的・反知性的だと区別できるつもりでいるんだ」と怒り出します。(日本戦後史論 朝日文庫

同じ人の発言とは思えません。20年の月日の流れとは残酷です。当時あれほど瑞々しかった知性がなぜこんなに党派的になってしまったのでしょうか。

断筆宣言をしても書き続けてネタ切れになったのでしょうか。地金が出ただけでしょうか。

話を簡単にすることを急ぐ人は、しばしば話を簡単にしすぎるせいで話を収拾のつかない混乱のうちに陥れることがあると言っていた2001年。「正しいおじさん」は状況に応じて思想を変えるものだということでしょうか。

ためらいの倫理学」の最初に取り上げたスーザン・ソンタグへの批判が、ブーメランのように返ってこないことを祈ります。

ソンタグ的世界では、一方に戦争とジェノサイドを起こしている「邪悪な主体」がおり、他方に戦争とジェノサイドを阻止するために駆けつける無垢で知的な「騎兵隊的主体」がいる。すべては「主体」の意思と決断の次元で語られる。とても、分かりやすい。

けれども、このあまりに分かりやすい図式には一つだけ欠点がある。それは「主体」たちは、絶対に自分が「邪悪な主体である」可能性を吟味しないということである。

スーザン、君のことを言っているのだよ。