二極化する公立学校教員の実力は将来に禍根を残す

中沢 良平

最近の学校現場、とくに小学校を見ていて気になることがある。

教員の力量の差がかつてなく広がっているように思えるのだ。

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教材研究で学校問題は解決するという思い込み

学校現場には、不安定な学級経営をする教員は、教材研究が足りていないと捉える文化のようなものがある。たしかに、教材研究は重要だ。教員でない多くの方もそう思われているだろう。学校は勉強するところだ、と。ちなみに、教材研究とは「しっかりと授業の準備をする」くらいに考えてくだされば当たらずとも遠からずである。

けれども、じっさいの現場では、生徒指導というか生活指導というか、学級経営能力のほうが重要なのである。

だって、安定した環境を構築しなくては、勉強もなにもないだろう。

しかし、この能力や技術は研修でほとんどスルーされる。

毎月・毎年のようにやってくる華々しい研究発表会は、教材研究の発表の場である。よく平日なのに研究授業があるからと子供たちは午前中で下校し、家庭は迷惑を被るというあれである。

現場の先生ですら、主観的には学校は勉強を教える場だと思っている。けれども、学級経営能力がなければいくら教材研究をしても、その子供たちは一年間地獄である。そもそも行政の無策による事務作業の肥大化によって、教材研究をする余裕はほとんどなくなっている。

現在の先生には、①迅速な事務処理能力、②難易度の増す学級経営・児童生徒指導、③分量だけはやたら増えた現行の学習指導、というまったく別個のスキルの素養が求められている。そんな優秀な人間はそうそういるのか?というのが率直な感想である。

人柄の問題ではあるが、かなりの程度は技術の問題

安定した学級経営に必要な素養は、キャラというか人柄というか、個人の生まれ持ったものだと思われているフシもある。けれども、かなりの程度は技術なのだ。それは話し方であったり、接し方であったり、発問の方法であったりする。

だから、毎年学級が落ち着かない先生は、そもそもその技術を知らなかったりする。だって、定期的な研修でも初任研でも取り上げられてないのだから、先生たちの間で問題意識に上がってこないのだ。学級経営がうまいクラスの先生を指して、「〇〇先生は子供たちと信頼関係があるからああいった学級経営ができるんだ(だから自分には無理)」と言う先生がいるが、信頼関係も結果である。ではどうすれば信頼関係が結べるのか。そういった点を言語化し共有化している学校は少ないだろう。

酷いことに、その技術がない先生のクラスを管理職が見ても、そもそも校長や副校長に教育技術がなかったりするので、アドバイスができないのである。(担任が苦手だから管理職になるという人は多い)

この技術があっても、学級崩壊に対抗できないこともある。が、この技術がなければ、毎年じつに落ち着きのない学級経営になってしまうのだ。(みなさんのお子さんが通っている学校にもそういう先生がいるのを思い当たりませんか?)

難易度が上がっている学級経営

かつては、そんな先生でも担任できるクラスが多くあった。しかし、近年学級経営は難しくなっている。スマホお守りの影響か、フルタイム共働き家庭の増加か、はたまた権利意識の高進かはわからない。しかも、現場はかつてない採用難である。

技術も伝承されず、難易度だけ上がっては、できる先生とできない先生の差は開くばかりである。

最近、やたら専科(音楽や図工、英語、算数少人数)の先生や、特別支援系の先生が増えている。時代のニーズを捉えてのことだろうし、プロフェッショナルな先生も多い。が、しかし、その中にどう見ても学級経営に困難を感じている人物がかなり紛れ込んでいるのだ。(繰り返すが、多くの専科の先生はしっかりしている)

しかし、難易度の高い学級をマネジメントできる教員は圧倒的に不足しているし、現在はそういった教員に負担が集中するようになっている。

今さえよければよいという短絡

現在の校長や教委はトラブル回避に躍起になっている。保護者や地域からのクレームを必要以上に怖れている。彼ら彼女らは、それで逃げ切れるからいいだろう。けれども、こういった担任ができない先生が増えていったときにどうなるのだろうか。そういった先生でも担任ができるように指導するのが管理職・マネジメントの役割ではないのだろうか。

現在の学校人事は、遠からぬ将来とてつもなく大きな禍根を学校現場に残すことになる。いち早く是正が望まれる。すでに被害に遭っている児童生徒は多いのだから。指導力のある先生に当たればラッキーで、そうでなければ学校不信になるという悪循環は、悲劇以外のなにものでもないだろう。