「教育」は 国家百年の計だが、その「教育」はなにを指すのか

2022年になって、日本経済は瀬戸際に立っている。瀬戸際なのは教育行政も同じである。

「教育は国家百年の計」とは政治家でも教育関係者(おもに公務員)でも保護者(おもに両親)でも言うことは同じだが、ここでいう「教育」は、なにを指すのかあいまいなまま議論が進んできた。

Milatas/iStock

教育内容は千差万別ゆえに逃げが打てる

一般的には「学力」の向上をいうのかもしれないが、学校ではあまり「学力」は重視されていない。さいきんの言葉でいう「非認知能力」とか「地頭」とかが重視されているわけでもない。どちらかといえば、学校で教えているのは「生活態度」「日本的道徳心」と言える。一方、一部の保護者は「受験学力」を重視するだろう。

「生きる力」という曖昧模糊としたフレーズがよく使われてきたが、これもいまいちわからない。というよりも、あえて共通理解を作らないほうが、学校関係者にとって都合がいいのだ。

学校に限らず、日本の組織や結社には目的がないものが多い。存続すること自体が目的で、なんとなく「関係者がいいかんじでいればいいんじゃないですか?」くらいの認識である。だから、非正規の職員に冷たいのはもちろんだし、サービスの利用者ですら枠外の存在になることが多々ある。

学校の教員たちは、すべてのサービスにおいてかなり中途半端な存在だが、中途半端ゆえにエクスキューズができる。「それはわれわれの考えている教育ではない」と。たしかに、そうやって押し切ってきた過去は快適ではあっただろう。

ただ、さいきんはこういった学校運営自体に、限界に近づきつつある。いじめ自殺のような深刻な問題にも真剣に取り合わないようでは、他の官庁のように公務員ではなくなる日が来るのではなかろうか。

学校の経路依存を断ち切れるか

けれども、学校に目的がないので、軌道修正のしようがない。

教員の働きすぎも、関係者や識者はいろいろ理由はつけるが、36協定が適用されない以上、残業はほんらいご法度のはずである。

けれども、目的が決まっていないので、なにかトラブルが起きて対応したり、だれかが思いたりすると、教育委員会や場合によっては学校内部で業務を増やし続けることになる。それによって学生の教職からの逃避という悪循環に陥っているのである。

「教育」とはなにか。

国民も政治家も先生も共通理解をもってほしいものだが、そんなことも意識にも上らないまま、教育予算は膨張していく一方で、教育の質は下がり続けるのだ。

【追記】

中央教育審議会の「令和の日本型学校教育」の構築を目指してによると、新しい時代の学校教育の実現は「正解主義」や「同調圧力」への偏りからの脱却ということらしい。自分たちがいちばん「正解主義」にこだわっているのにこんなことを言うのはなかなかの胆力である。

たしかにこのとんち絵に書かれていることは“素晴らしい”が、現場にどんなリソースがあるのかわかっているのだろうか。「失敗の本質」を地で行く兵站計画である。