「豊臣と近江八幡▼最先端の商業都市! 激動の時代が生んだ近江商人」という番組が2月6日午後7時半からNHK総合テレビで放送された。地元滋賀県を取り上げて楽しみにしていたが、歴史的な経緯についてはまったく都市伝説レベルに基づいており、重大な誤りだらけだった。
まず、八幡山城を秀吉の後継者としての秀次が築城したといっていたが、流れは次のようになっている。
- 1584年(天正12年):清洲会議のあと安土城にいた三法師が坂本城へ移る
- 1585年(天正13年):豊臣秀次が近江43万石を与えられ築城
- 1590年(天正18年):秀次は尾張清洲へ転封、八幡山城には京極高次が入る
- 1591年(天正19年):鶴松が死去し、秀次が関白に
- 1595年(文禄4年):秀次が謀反の嫌疑で自害。同年、京極高次は大津へ6万石で転封され、八幡山城は廃城
本能寺の変のあと安土城の天守閣などは焼けたが、一部は残っていたのか、再建されたのかは分からないが、三法師が安土城に堀秀政をおもり役として現実に居城していた。しかし、織田信雄と秀吉の対立が激しくなり、三法師は秀吉の命令で丹羽長秀の居城だった坂本城に移った。
そして、小牧・長久手の戦いのあと秀次が近江を領することになったが、安土に代えて八幡山城を築いて城下町を丸ごと遷した。
ただし、この時点では秀次は秀吉の養子でも跡取りでもない。したがって、番組で秀吉の後継者だった秀次によって築かれた城と紹介されたのは誤りである。
安土廃城の理由は、愛知川の流路変更で砂が堆積し安土の水上交通に障害が出ていたためで、琵琶湖から船の出入りがしやすい八幡に白羽の矢が立ったのである。
秀次は八幡山城主となったが、軍務以外のほとんどの時間は聚楽第外郭の屋敷にいたようで、長期間八幡山城に居城した記録はない。
そして、天下統一のあと、秀次は信雄の旧領である尾張と伊勢をもらい清洲城に移った。しかも、鶴松が死んだので秀次は関白になり、聚楽第をもらった。ただし、清洲には秀次の両親が居城し領国支配を行った。
一方、天下統一に伴い、八幡山城は京極高次の居城となった。旧領は小大名に分割された。そして、1595年に京極高次は大津城に移り、大津と石田三成の佐和山が近江支配の中心となり、安土や近江八幡など湖東地域には大大名はいなくなった。
八幡山城は秀次の居城だったから解体されたという都市伝説があるが、そんな話は当時の記録にないし、秀次の居城というなら清洲城だが、それが破壊された記録もなく不自然である。おそらく、大津城や佐和山城など各地の城に分散して遷されたのでないかと考えられる。
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