精神的に強い人

『論語』の「先進第十一の十」に、「顔淵(がんえん)死す。子これを哭(こく)して慟(どう)す。従者の曰く、子慟せり。曰く、慟すること有るか。夫(か)の人の為に慟するに非(あら)ずして、誰が為にかせん」とあります。

之は、『顔回が死んだ時、孔子は悲嘆のあまり慟哭され、連れ添った門人たちが言った。「先生は大変な悲しまれようでした」。孔子は言われた。「私はそんなに悲しんだかね?あのような人間の死を悲しまないで、誰のために悲しむと言うのだ?」』という章句です。

上記より、孔子は精神的に弱い人かと言うと、そうではありません。人間として当然持つべき感情の吐露は、寧ろメンタリーに健全な状況だと思います。そしてまた、泣くべき時に泣かないでいることは、メンタリーに強いということも意味しません。

その人が精神的に強いか弱いかの判断は、通常の状況下で本来出来るものではないと思います。それは、想像を絶するような事象が起こった時に、正に「弁慶少しも騒がず慌てず」ということが出来るか否かに拠りましょう。

当ブログでは嘗て『論語』や『呻吟語』あるいは『呂氏春秋』といった書物から様々な人物判定の方法を御紹介しましたが、つまりは「恒心…常に定まったぶれない正しい心」がどうかの一点こそが急所であると思います。

此の恒心というのは「言うは易く行うは難し」で極めて難しいことですが、その実現を図るに私は取り分け次の三点が重要だと考えています(参考:2012年10月12日北尾吉孝日記『知情意をバランスする』)。

第一に、人生におけるあらゆる辛酸を嘗め尽くすとまでは行かなくとも、「世の中には自分以上に苦しんでいる人が沢山いる。自分の存在は寧ろ有り難い」というふうに思えるよう、兎に角色々な経験を積むことです。

第二に、中国清朝末期の偉大な軍人、政治家で太平天国の乱を鎮圧した曾国藩が言う「四耐四不」、即ち「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、激せず、躁(さわ)がず、競わず、随(したが)わず、もって大事を成すべし」という言葉の実践に向けての日々の努力です。

第三に、「学」というものであり、荀子も言うように憂えて心が衰えないようにするため、世の中の複雑微妙な因果の法則を悟って惑わないようにするため、しっかりと人間学を修めねばならないことです。

恒の心というのはこれら合わさって達成されて行くわけで、「精神的に強い人が決してしない10のことを学べば、あなたも自分の精神力を高めることができる」とか、『「精神的に強い成功者にみられる10の習慣」を意識して、つらいできごとにも負けないメンタルを身につけ』るとか、といった類のネット記事は余りにも浅薄です。

もっと言うと、先ずは四耐四不で艱難辛苦を様々克服して行く中で精神的タフネスを如何に養うか、ということに尽きるのです。いま苦しいのは、「人間成長のためだ」「天が与えたもうた試練だ」と思って、之を頑張り抜くのです。

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