30年ぶりの賃上げ水準に
岸田首相は4月29日に開催されたメーデーにおいて「30年ぶりの賃上げ水準となった」とあいさつした。
相次ぐ大企業の賃上げにより、中小企業が採用で負けることが予想されている。しかし、これは今に始まったことではなく、過去から存在している問題である。
この条件格差による採用の問題、弱者の戦略を中小企業診断士であり、人事の専門家の立場から考えてみたい。
企業間格差による採用問題は20年以上前から存在している。
岸田首相の年初の抱負(年頭所感)における賃上げ要請、ユニクロを展開するファーストリテイリングの初任給30万円を皮切りに、アフラック、三井住友銀行、任天堂と大企業の初任給アップが相次いで報じられている。
賃上げを表明する大企業は続々と現れているが、大企業は大企業と中小企業の初任給の格差は今初めて起きたことなのか? これはもちろんNoである。厚生労働省の調査を見ても大学卒の初任給は規模別で大企業213千円、中企業208千円、小企業203千円と差がある(参照・厚生労働省 令和元年賃金構造基本統計調査(初任給)の概況)。年間休日も1000人以上の企業と100人未満の企業では平均10日以上の差がある。このように初任給にも年間休日にも格差は以前から存在している。
リクルートワークス研究所の大卒求人倍率では大企業の人気は顕著だ。求人倍率は、求職者1人に対する求人数を示す、つまり「就職のしやすさ」の目安といえる。求人倍率は低いほど企業が有利な買い手市場、高いほど学生が有利な売り手市場となる。
景気の上下に合わせて求人倍率も上下するが、データを見ると1000人以上の大企業は求人倍率が常に1倍以下と大人気だ。その一方、1000人未満の企業では求人倍率が常に1.5倍以上と1000人規模を境に大きな差がある。
300人未満に限って言えば常に3倍以上と深刻な人で不足であることが数字からわかる。(1000人以上・未満は調査を始めた1996年卒以降、300人未満は調査を始めた2010年卒以降)
条件格差は元から存在しており、採用において中小企業はずっと売り手市場であり、大企業はずっと買い手市場であるということである。
現在の雇用に関する傾向は主に三つある。
1つ目は、今までの格差とは額が異なることである。過去にも初任給に差はあったものの調査を見ると平均で1万円の差に収まっていたものが、今回の賃上げにより大きければ10万円程度の差になる。
2つ目は、コロナ禍により各種データにおいて採用意欲の低下が見られていたが、回復傾向を示した中での賃上げである。
3つ目は、採用活動のオンライン化やリモートワークが進んだため、コロナ前までの地域格差は消滅し、全国での競争に変化している。そんな中での賃上げである。
採用に苦戦している中小企業の問題の深刻化は容易に想像できる。
採用問題が及ぼす経営へのインパクト
帝国データバンクの調査では、人手不足倒産は2013年の34件から2018年の153件まで増加している。コロナ禍で落ち着いていたものの、2022年度には再度増加に転じ、前年比26.1%増の140件と採用難は企業の存続に影響する問題である。
労働市場全体を見ても、2030年には労働需要7073万人に対して労働供給6429万人になり、644万人の人手不足となっている(参照・パーソル総合研究所 労働市場の未来推計2030 2020/12/25)
このような日本の人口動態に加えて今回の賃上げである。日本商工会議所と東京商工会議所の調査によると、中小企業の約6割が賃上げ予定だが、その多くが業績の改善を伴わない賃上げとなっている。多くの中小企業が「人手不足」だけでなく、「人件費高騰」と向き合わざるを得ないということだ。
賃上げだけが正しいのか?
人材獲得のために賃上げ予定の企業は多数あるが、果たしてそれが採用につながるのか?
例えば、前年に初任給20万円の企業が初任給22万円の競合企業に負けて採用で不利に陥っていたとする。
このようなケースにおいて、昨今の賃上げで競合がさらに初任給を5万円アップした場合に3万円アップで追随したとする。当然23万円に対して競合は27万円と差は拡大している。もちろん賃金を上げないよりはましだが効果は薄いと言わざるを得ない。
では、このような人材不足の中で何をすれば良いのか?
採用とは、他社との競争であり、競争を勝ち抜くための戦略を持っていることは重要なはずである。そこでマイケル・ポーターの競争における基本戦略のフレームワークに当てはめて考えてみたい。
マイケル・ポーターは、「コストリーダーシップ戦略」「差別化戦略」「集中戦略」の3つの基本戦略のうち少なくとも1つにおいてさえ戦略が作れない企業を窮地に立った企業と呼び、苦戦を強いられるとしている。
「コストリーダーシップ戦略」とは、効率化のための設備投資や販売促進のコストを切り詰めることで低コスト体質を実現し、他の企業よりも条件面で選ばれやすくなる戦略である。価格で選ばれるという意味で、低価格の販売に対して、採用ではその逆に高い給料で選ばれやすくなる戦略であり、まさに賃上げはこの「コストリーダーシップ戦略」に該当すると言える。
「差別化戦略」とは、製品やサービスに特色を持たせ、業界の中で特異なポジションを占めようとする戦略である。採用で言うと他社が真似できないユニークな特徴を打ち出していく戦略であり、大手企業と互角に競っているメガベンチャーなどはこの戦略に該当する。
「集中戦略」とは、特定の地域などに経営資源を集中し、特定のセグメントで、コストリーダーシップ戦略や差別化戦略を実現する戦略である。採用で言うと、コロナ前の地方企業は自動的に特定セグメントを対象とした「集中戦略」をとっていた。
私が知る限り、中小企業における採用の好事例のほとんどは、競争を限定的にするターゲットを絞り込んだ採用ニッチ戦略(=集中戦略)である。
「ターゲット」で競争を回避する
『採用する「ターゲット」を明確にしましょう』と言えば、そんな当たり前のことをと思われるかもしれないが、私が実際にアドバイスをした500社以上の中小企業で採用ターゲットを明確に語ることができる企業は1割未満だ。
多くの中小企業は、新卒採用で言えば「地元の人」「やる気がある」というレベルで止まってしまっている。
採用でターゲットを明確にするとどのような効果があるか?
例えば、終身雇用の意識が薄れている新卒者に向けて転職歓迎といった切り口があっても良い。昨今のコンサル人気は、転職時の市場価値を意識したものでキャリアアップを考えている学生には有効なセグメントだ。
プロ野球の世界で言えば、大谷選手をメジャーに送り出すことも視野に入れて入団交渉した日本ハムファイターズなどはこれに近い。採用においても転職歓迎、独立歓迎といった切り口で採用を促進している士業事務所も見受けられる。
ターゲットを明確にする際のポイントは競合が減るかどうかにある。先ほどの地元かどうかややる気は競争倍率の低下につながらないため効果が薄い。中途採用において他社が狙わない40代以上に設定したところ一気に応募が増えたケースなども同様で、ターゲットを明確にすることは採用における競争の回避につながる。
狙いを定めたからこそ見える「競争優位性」
『競争優位性を決めましょう』なんて言うと、『そんなものがあれば苦労していない』という声が聞こえてきそうだが、ターゲットを特定した採用ニッチ戦略だからこそ見つかるとも言える。
採用において「ターゲット」を市場全体に設定し、「競争優位性」をコスト、つまり賃上げに設定してしまうと中小企業は大企業に到底太刀打ちできない。
そこで「ターゲット」を絞り込んで特定セグメントに設定することによって、その特定セグメントならではの「競争優位性」が見つかる可能性が出てくるということである。
例えば、地元で生活する理由がある求職者にとっては、転勤なしは有効な魅力となり得るが、そうでない求職者にとっては大きな魅力にはなり得ない。もっと言えば、海外勤務も含めていろいろと経験したい求職者にとってはマイナスにもなり得る。
このように「ターゲット」を明確にすれば、そこに「競争優位性」が見つかる。狙いを定める、つまりふわっと全体を狙うのではなく、ターゲットを明確に絞り込むことによって中小企業ならではの違いを見つけられるということだ。
絞り込みによって対象となる母数が減ることを恐れていては中小企業の採用は必ず負ける。例えば客単価が何万円もするような三つ星レストランは、明らかに収入が高く、食事に高いお金を出しても良いと考える人だけを相手にしている。
ターゲットとしては相当に絞り込んでいるが、だからこそ高級食材や腕の良い料理人による質の高い料理を提供できる。誰でも歓迎の低価格チェーンとターゲットは全く戦略が異なる。中小企業の採用が取るべきは、誰でも歓迎のチェーン店方式ではなく客を選ぶ三つ星レストラン方式だ。言うまでも無くこれは賃金を上げれば良いということではなく、賃金で負ける部分を他の特徴で補えばよい、と言うことだ。
マイナビの調査結果でも、中小企業志望者の企業選びのポイントは、「給料の良い」の回答割合は全体より低くなっており、「働きがいのある」「社風が良い」の回答割合が全体より高くなっている。(参照・2022年卒大学生就職意識調査 マイナビ)
採用戦略の行く末
経営学者の楠木建氏は、戦略とは、競争相手との違いをつくることと言っている。ここで言う違いは「better」と「different」、つまり「より良い」か「差異」である。そして、「better」よりも「different」なポジションを取ることこそが戦略を考えるときに最も重要なポイントだと指摘する。中小企業の採用戦略で最も重要なポイントだ。
これは低賃金で都合よく雇える人を探せ、という意味では無い。そもそも賃上げの原資に劣る中小企業は、大企業と同じ「賃上げで勝負」という土俵で戦えないことは明白であり、そのためには知恵を絞るしか無い、ということだ。
人手不足、人口減少、賃上げという中小企業にとって厳しい環境の中で、今後採用において「better」が加速するのか、「different」が台頭してくるのかに注目したい。
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窪田 司 コォ・マネジメント(株)代表取締役 中小企業診断士
岡山県出身、岡山県在住。香川大学経済学部卒業後に地域金融機関に就職し、経営企画部門、人事部門を経験。2014年、中小企業診断士事務所を開設・独立。2017年、中小企業向けのコンサルティング会社コォ・マネジメント株式会社を設立し、500社以上の人事問題の相談に対応。Owned Media Recruiting Journal(Indeed)、d’s JOURNAL (パーソルキャリア)等のメディアでの執筆や新聞、雑誌等への取材や協力多数。著書に『「化ける人材」採用の成功戦略』(スタンダーズ)。
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編集部より:この記事は「シェアーズカフェ・オンライン」2023年5月17日のエントリーより転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はシェアーズカフェ・オンラインをご覧ください。