不都合な事実を黙殺した”西山鑑定”
2006年2月20日、168日もかけた西山”鑑定”の結果が出ました。
西山氏の”鑑定書”は、全部で88ページもあったそうです。しかし、そのうちの65ページは公判記録や東京拘置所の記録で占められ、西山氏の”鑑定”は23ページに過ぎません。
しかも23ページしかない”鑑定”の中で、実際に西山氏が見た父の状態について触れているのは、たったの4ページだったそうです。
この”鑑定”はそもそも、裁判所による「訴訟能力を有するとの判断は揺るがない」という前提の元で行われたため、最初から結論が決まっていることは、うすうすわかっていました。しかし西山氏の”鑑定書”は、そのわたしの想像すら絶するものでした。
次回から、”西山鑑定”の内容についても、見てきたいと思います。
内容を吟味することなく、間違った記録に基づいて鑑定
西山氏が引用している拘置所の記録には、明かな虚偽も混ざっていました。たとえば拘置所は、食事の際に、父がスープの一滴もこぼさずに食べると主張しています。しかし、父は目が見えないため、こぼすことはしょっちゅうでした。家で食事をするときは、あらかじめ服が汚れないよう、バスタオルを胸元やひざにかけたものです。父の手を持って、おはしやフォーク、スプーンの位置を教えるのも、そばについている介助者の役目でした。
拘置所は第三者の目に触れない密室です。いくらでも記録をねつ造することができます。
拘置所にとって、父が重篤な病気のまま放置されているというのは、体面にかかわります。しかも、父は最初から重篤だったわけではなく、時間をかけて病状を悪化させてきました。しかし、もし父を「詐病」という結論に持って行けるなら、治療をせずに症状を悪化させたと責められることもありません。
つまり、拘置所は父にとっては少なくとも、公平な機関とはいえないのです。その拘置所の報告内容が正確であることを当然の前提として、西山氏は鑑定を行っていたのです。
西山氏は、なぜ公平とはいえない拘置所などの記録ばかりを引用し、自身でしっかりと鑑定しなかったのでしょうか。西山氏が適正な鑑定をしようとするなら、自分の目で食事中の父の様子を見る機会など、いくらでもあったはずです。
心理検査は不可能とあきらめた西山氏
西山氏は、父に対する心理検査は不可能と思い、心理検査を回避したそうです。そもそも、やっていないのです。
西山氏はまた、父にもうろう状態を認めながら、自分の観察が断片的だからという理由で、結局のところそのもうろう状態を無視しました。鑑定人を名乗っているのだから、もっと長時間観察すればすむはなしです。
さらに、拘置所の職員が不安そうに声をかけるほどの、けいれんのような発作を父に認めながら、病状において考慮しませんでした。
父の病状がまだ軽かったときの不規則発言や見当識(現在の年月や時刻、自分がどこに居るかなど基本的な状況把握)障害による発言は、「作話」と断じました。
西山氏は、父が面会時に発していた、相づちのような音については、問いと意味ある関連はなさそうだと、コミュニケーションが成立しなかったことを認めています。父は西山氏の前でも、話などできる状態ではありませんでした。
では一体西山医師は168日間もかけて、何をしていたのでしょうか。元々決まっていた結論を、鑑定書という表題の文章に押し込んだだけではないか。論理の破たんを取り繕うための文章を考えるのに、時間がかかっただけではないのか。そう疑われても仕方がないほど、西山医師の鑑定書は論理的に破綻し、意味をなさないものでした。
訴訟能力とは
訴訟能力とは、「被告人としての重要な利害を弁別(物事の違いをはっきりと見分けること)し、それに従って相当(適切)な防御をすることのできる能力」とされています。
つまり、訴訟能力の有無は、被告人が裁判の内容を適切に理解し、適切な行動が取れるかどうかによって判断されることになります。
しかし、父とは一切意思疎通が成立しなかった西山氏に、父にこんな能力があるかどうかわかるわけがありません。一方で、もうろう状態、けいれん、意味をなさないうなずき音など、父が病気だと疑うに足る事情は西山氏自体が目にしています。
正常であるという証拠は得られず、病気だという現実ばかりを目にしてしまう。そこで西山氏は、訴訟能力について、彼独自の持論を展開することにしたようです。
西山氏は、コミュニケーションを行う能力を、「ものをいう能力」に置き換えてしまいました。そうして、ものをいう能力さえあればコミュニケーション能力はあり、したがって訴訟能力があることになる、と結論しました。
しかしながら、父には「ものをいう能力」すらありません。そこで西山氏は、父がものをいう能力があるにもかかわらず、ものを言わないだけだとしてしまいました。
ものを言わないだけとした根拠は、本当に精神科医の言葉かと、疑わざるを得ないものでした。
ものを握ったり、ものを食べたりすれば正常?
西山氏は、”鑑定”の結論で、父に訴訟能力ありとしました。
理由は、父がものを握ったり、食べたりするということができるから――という、驚くべきものでした。
西山氏によると、ものを握ったり、食べたりできるのに、ものを言わないのは、昏迷(精神的な病気)ではなく、父が自分で選択した無言だというのです。だから父には、ものをいう能力=コミュニケーション能力=訴訟能力がある、というのです。
訴訟能力については前回書きましたが、被告人が裁判の内容を適切に理解し、適切な行動が取れるかどうかによって判断されることになります。
ものを握ったり、何かを食べたりすれば訴訟能力があるなんて話は、聞いたことがありません。
正直言って、西山氏が何を言ってるのか、理解ができませんでした。
これを弁護人が説明してくださったとき、
「どうしてものを握ったり、食べたりすることができたら正常なのですか? 赤ちゃんでもそのぐらいできますよね……」
と弁護人に聞いたところ、弁護人は、黙ってしまいました。こういうのを絶句というのかもしれません。あまりに意味を取れない”鑑定書”に、弁護人は当惑していたように思います。
精神科医の先生にも、「西山は、医者として恥ずかしくないのか」と怒っている方がいらっしゃいました。
西山鑑定が出されたあと、弁護人は裁判所に、精神科医作成の西山鑑定に対する反論書3通、反論が含まれている補充書などを2通、合わせて5通提出しました。この時点ですでに、6名もの精神科医が、意見書等を書いてくださっています。
しかし、”鑑定”前から判断が揺るがないほど結論が決まっていた裁判所にとって、精神科医の先生方の意見書は、意味をなしませんでした。
赤ちゃんにも訴訟能力があるの?
2006年3月27日、「ものを握ったり、ものを食べたり」すれば混迷ではなく正常であるという、裁判所側鑑定人、西山医師の”鑑定書”を根拠に、父の控訴が棄却されました。
裁判所は弁護人が診断を依頼したその他の6名の精神科医による、計10通以上の父の精神状態に関する意見書や、西山鑑定に対する反対意見書を黙殺しました。
父は社会的には非難の的であり、6名の精神科医が、父のために事実の捏造をする必要性はありません。かたや西山医師は、裁判所や国家、社会から圧力を受けた状態で鑑定をしたのであり、鑑定のねつ造をせざるを得なかったと思っています。
わたしには、「ものを握ったり、ものを食べたり」すれば訴訟能力があるという主張は、まったく理解のできないものです。赤ちゃんでもものは握りますし、食べます。彼らには訴訟能力があるというのでしょうか。赤ちゃんに、
「被告人は○年○月○日に○○県○○市にある○○へ行き……」
なんて語りかけても、せいぜい「ばあぶ?」ぐらいしか言えません。しかし父はその「ばあぶ?」も言えないのです。
しかも父は、赤ん坊ではなく、50過ぎの成人です。「ばあぶ?」も言えない大人に、訴訟能力があるとはとうてい思えません。
日弁連の勧告-精神治療を実施せよ
2006年3月の終わりに控訴が棄却され、弁護人は即時抗告、特別抗告を行いました。この間、7人目の精神科医が、またもや意見書を出してくださっています。しかし、即時抗告、特別抗告も棄却され、同年9月15日に判決が確定しました。
2007年4月になると、東京拘置所による弁護人に対する面会拒否が始まりました。
東京高等裁判所と父との関係が切れて7ヶ月弱、ほとぼりがさめたころに拘置所が面会拒否を始めたことから、この面会拒否が東京拘置所主導によるものであることは、明白だと言えます。しかしそれでも東京拘置所は、弁護人に対し、父の都合で自然に接見できなくなっていったという体裁をとりつくろおうとしました。
「×○○○○○○○×××××○○×××○○××○○××○×××××
○○○×××××××○(接見できたときが○ 拒否が×)」
という具合に、すぐさま完全に拒否するのではなく、自然に面会ができないという流れに持っていこうとしたのです。面会拒否をする際には、「声をかけたけど動こうとしなくて」等、父の具合、父の問題だと主張しました。
同年11月6日、日本弁護士連合会(以下日弁連と略します)は「人権救済の申立」に基づき、父を在監中の東京拘置所に対し、適切な精神医療を受けさせるよう勧告しました。
日弁連人権擁護委員会の調査報告書は、東京拘置所にも常勤の精神科医がいるが「必要最小限の精神医療を実施していない」と指摘し、外部の精神科医による診察を受けさせ、薬物療法や医療刑務所での治療などを速やかに実施するよう求めましたが、「病気であってはならない」あるいは、「病気を治してはならない」父に治療が施されることはありませんでした。
家庭裁判所の調査官や鑑定人ですらも――
家族に対する面会拒否が始まったのは、8月中旬からのことでした。拘置所は家族に対しても面会拒否・許可を繰り返し、わたしが知る限り、弁護士は2008年4月30日ころを最後に、家族も6月10日を最後に、一切面会ができなくなりました。
家族で最後に父と会えたのは、姉と弟の二人でした。このとき父の顔は皮膚がむけて赤く腫れ、精神面のみならず肉体もひどい状態だったそうです。
久しぶりに父と会った弟は、父の状態に衝撃を受け、「あちこち赤いですが、何かかぶれでもしたのですか。それとも、何かに刺されましたか」などと心配して声をかけましたが、もちろん返事はありませんでした。
あるいは、と思います。まだ少年である弟までも、精神面はいうまでもなく、肉体の状態まで心配してしまったからこそ、拘置所は父を誰とも会わせてはならないと、結論したのではないか――と。
後年、父を被後見人とする成年後見を申し立てましたが、家庭裁判所の調査官や鑑定人は父への面会を拒否されました。
わたしが知る限り、08年6月10日以降、父は外部の人の目に触れておりません。父は姉と弟が最後に見た、肉体的にもぼろぼろの状態のまま、東京拘置所によって隠蔽されたのです。
服は糞尿で汚れているので、宅下げできません
東京拘置所は面会拒否の理由を、最初から現在に至るまで、本人が自分の意思で部屋を出ようとしないからであると、父にすべての責任を負わすような言い方をしています。
しかし、わたしたちは数十回面会を重ねてきましたが、一度として意思疎通が図れたことはありません。いえ、そもそも父は意味ある言葉を発したことも、わたしたちの言葉に反応したこともありませんでした。そのような廃人である父が、自らの意思で面会拒否をするなど、あり得ないことです。
父は前述の通り、排泄のコントロールすらできない状態です。面会となると、汚物にまみれた父を洗い、髭や髪を整え、服を着せ替えて面会室へ連れてこざるを得ません。拘置所はそれもいやなのかもしれません。実際、面会時父は清潔にされていましたが、父の服を洗濯したいから宅下げしてほしいとお願いしたときは、糞尿で汚れていて、窓口まで持って来られないと拒否されました。
両目をつぶったまま水道から水をくんでトイレに流せますか
東京拘置所は、適切に父の身上監護をしているといいます。しかしながら、わたしはそれを信じることができません。父が病気でないとあくまで主張し治療を施さず、あのような状態になるまで放置したばかりか、全盲である父が健常者と同じことができないという理由で懲罰を与えることもありました。
例えば、1996年の夏、まだ父が弁護人と会話ができていたころのことです。拘置所では夜間のトイレ使用時、水道から水をくんで流す決まりがありました。大きな音を立てないようにするためだと思います。しかし、目が見えない父はトイレの排水装置を利用してしまいました。そのため、軽屏禁という懲罰(受罰者を罰室内に昼夜こもらせる処分)を受けました。これを障害者に対する正当な扱いといえるでしょうか。父が廃人になっていく過程に、拘置所のこのような扱いが関係していた可能性を、わたしは否定できません。
階段から転落も――
父は今でも、弱視ではあるがわずかな視力があると、一般に報道されています。しかし父は生まれたときから片眼の視力がなく、もう片目も1989年の秋頃にすべての視力を失っています。
裁判所側の鑑定人の西山医師でさえ、眼球結膜が綿のように白濁していると言っており、盲目であることは疑いありません。
全盲になったあとは、主にわたしたち娘が介助し、歩く際は杖代わりをつとめました。
杖代わりをつとめるときは、「あと5歩で階段です。3,2,1、階段に入ります。階段はあと6段です。3,2,1、階段終わります」というように、常に進路をアナウンスし続ける必要がありました。
例えば歩数を間違えてしまったり、ちょっとした出っ張りのアナウンスをし忘れてしまったりすることがあると、階段を転げ落ちるなどの事故を引き起こしました。
歩くときだけでなく、シャワーや着替え、食事の際にも介助は必要でした。
これらは当然父が逮捕される前のできごとであり、全盲を装う利益など、どこにもありませんでした。
視力があると決めつけられる理由
しかし――と思います。父には全盲を装う利益はありませんが、父に視力があると決めつけた人たちには、父に視力があると決めつける利益があったのではないか、と。
父は逮捕後、「早く裁判を終わらせろ」「早く殺せ」という世論の圧力にさらされて来ました。裁判所は父が障害者であろうとなかろうと、病人であろうとなかろうと、とにかく裁判という劇を終わらせねばなりませんでした。
裁判所は父の弁護人がそろう前から、
「この事件は世界に注目されている事件である。できるだけ速やかに裁判を終えたい。裁判所としては、5年以内に判決を出したいと考えている(安田好弘著:生きるという権利)」
と言ってはばかりませんでした。裁判官は立場上予断を排除せねばならなかったのに、裁判前から刻限を切るほどに、結論は決まっていたのです。
結果として父の裁判は、被告人である父抜きに進められました。父の精神が崩壊し、いわゆる「不規則発言」などがあると、法廷を侮辱していると父に責任を負わせ、退廷させてきました。その行動は「詐病を装ってまで死刑を回避しようとする、卑劣な人物」として、マスコミに報道され、マスコミの視聴率や売上げアップに寄与しました。裁判所の行動は、マスコミによって肯定されたのです。
しかし、ここで父が全盲だったらどうなっていたでしょう。父が全盲であれば、事件に関して父が果たした役割はなんであったのか、事実認定に時間がかかります。時間がかかれば、裁判所はマスコミにバッシングされる。全盲である父に障害者として必要な気を遣えば、やはり、マスコミにどうバッシングされるかわかりません。
逮捕後の父の扱われ方を見ると、父は目が見えていなければならなかったのだと思います。
三権分立は本当だと思いますか?
こんなことを書くと、裁判所はそんなことはしない。裁判は公平だとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。
――1989年、愛媛県の松山市で追い詰められたタイ人女性による、殺人事件がありました。この裁判は満足な通訳もないまま進められました。支援団体は、タイ人通訳人を補佐するタイ語に堪能な日本人通訳人を法廷に配置するよう求めましたが、裁判長には届きませんでした。判決時、裁判長は、
「判決理由の補足説明については、通訳の必要はありません。検察、弁護人、日本語のわかる傍聴人は聞いてください」
と言い放ちました。
「補足説明」は長く、法廷内でそれが理解できない者はただひとり、被告人だけだった(深見史著:『通訳の必要はありません』)そうです。
裁判所は、一体どこをむいて裁判していたのか。検察、弁護人、傍聴人のためのものだったのか。
父の裁判でも、まったく同じことが行われました。裁判所は、差別しても批判されない相手に対しては、まっとうな手続きすら取ることを厭うのです。
そもそも、三権分立とはいわれていますが、裁判所は決して独立した機関ではありません。最高裁判所の長官は内閣が指名、裁判官は内閣が任命します。下級裁判所の裁判官は最高裁判所が作成した名簿によって、内閣によって任命されます。つまり、三権分立どころか、時の政治の影響を強く受けるのが、裁判所という組織です。
実際、一時期、国家体制に都合の悪い判決が相次いだあと、内閣は政策に理解を示す傾向の強い最高裁判所長官・裁判官を指名・任命するようになりました。
また、長沼ナイキ訴訟を担当する札幌地裁の福島重雄裁判長に対して、同地裁の平賀健太所長が、判決の方向性を指示する書簡を交付した『平賀書簡事件』をはじめとして、個々の裁判官の独立を侵害する圧力が裁判所の内外からかかるようになりました。
最高裁が是認できない違憲判決などを下した裁判官が、支部の裁判所や家庭裁判所に左遷させられた例は枚挙にいとまがありません。これらの施策によって下級裁判所での違憲判決は抑制されるようになりました。
つまり、裁判所は政治的な動きから離れたところにはなく、政治の影響を色濃く反映するところといえます。
健常者なの? それとも要介助者なの?
東京拘置所は、父を文字通り24時間監視しています。健康診断もありますし、父が全盲であることを、知らなかったはずがありません。
1996年4月、東京拘置所は父に車いすの使用を強要したそうです。理由は、父が健常人と同様に歩けず、職員の介助が必要となり、移動時間もかかるため、というものでした。歩きたいと願う父に、拘置所は、他の被収容者と同様に歩行ができない限り車いすを使用すると、父の願いを拒絶しました。
普通の生活を送っていると想像しにくいかと思いますが、拘置所に収容されている人にとって、歩く機会というのはとても大切なものです。しかし父は障害者として車いすを強要され、大切な「足」までも奪われてしまったのです。
一方で、公的に父を「盲目」とするのではなく、目が見えることにしておけば、父が健常人と同じことができないということを理由に、懲罰をいつでも科すことができます。
なお、父が夜間にトイレの水を流したことで懲罰を科された件は、東京拘置所にいる他の方いわく、誰かしら夜間にトイレの排水装置をつかって流してしまう人はいるようで、「そのことで懲罰を受けるとは考えられない」とのことでした。それが本当だとしたら、父はまさしく言いがかりをつけられ、懲罰を受けたことになります。
「お父さん本当は目、見えるんでしょう?」
マスコミはどうでしょうか。マスコミは、父は悪魔のような独裁者で、詐病を装ってはばからない卑劣で矮小な人間という人物像を作り上げました。そのような人物像と、全盲の障害者というのは相容れません。それに、もし全盲の障害者と認めてしまっては、マスコミは裁判所のやり方などに、疑義を呈さなければならなくなってしまうかもしれません。マスコミは自分たちがつくった人物像を守るため、また、自分たちの責任から目を 背けるために、父を調べもせずに「有視力者」としたのです。
わたしはマスコミに幾度も取材を受けてきました。取材では、いつも同じようなやり取りがありました。
「お父さん本当は目、見えるんでしょ?」
「いえ、全盲です」
「見えるんじゃないの?」
「わたしが子どものころから、何も見えていません」
と答えると、途端にマスコミの人は興味を失いました。全盲だというわたしの言葉が、報道されることもありませんでした。まさしく、父が全盲であることは、隠蔽せねばならぬ事実だったのです。
後悔
今思うと、1996年の10月から、父は崩壊を始めていたのだと思います。にもかかわらず、精神を病み意味の通らぬことをしゃべる父を、一審の裁判官は法廷を侮辱していると主張し、幾度となく退廷させてきました。その様子を見て、マスコミは詐病だとかき立て父を人格的に陥れました。父は当時すでに、自分がどこにいて、何をしているか理解するだけの能力は、失っていたでしょう。
なぜ気づいてやれなかったのか。どうして詐病だと信じ込み、父が壊れていくあいだ手をこまねいてしまったのか。一審の弁護団に、父の病状を確かめることだってできたはずなのに、どうしてそうしなかったのか。まだ子どもだったとはいえ、世間の風潮と本当の病気であって欲しくないという娘としての思いから、わたしは父が壊れるのをただ黙って見ていたのです。
父と面会ができなくなってから、すでに5年以上経ちました。かつて父を心神喪失状態になるまで放置し、わたしは後悔しきれぬほど後悔しました。今もまた、面会拒否の厚い壁の向こうで、父はただ一人闇に取り残されています。これ以上、座視していることは、わたしにはできません。
父を鑑定して下さった精神科医の先生方は、治療すれば治る可能性があるとおっしゃって下さいました。そういった言葉があったにもかかわらず、父は治療も受けられずに、放置されています。
――今、わたしにできること。それはわたしが見てきた父の真実を、ありのままに公表することだと思います。いかにレッテルを貼ろうと、父は詐病ではありません。父は心神喪失の状態にあり、治療を必要としています。いかに存在しない視力を押しつけても、父が全盲であることは間違いのないことです。
わたしはただ父に治療を施してもらいたい。父が何も語れなかったことにより、いわゆるオウム事件の真相もわかっていません。わたしは父自身の口から、何があったのか聞きたいです。このままでは、真相もわからぬまま事件を風化させてしまうことになります。それでは、教訓も得られず、似たような事件の再発も防げません。
なぜ父は治療も受けられなかったのか、その真実もわたしは知りたいです。
編集部より:この記事は、著述家、カウンセラーの松本麗華氏の公式ブログ「お父さん分かりますか?」 2015年5月16日の記事を転載させていただきました。
オウム真理教事件から22年。事件の被害者は6583人(2010年の警察庁認定時)にのぼり、サリン事件などの後遺症に苦しむ大勢の方がいます。その一方で、加害者の家族、特に事件当時に未成年であった松本智津夫死刑囚の子どもたちもまた波乱万丈の人生を歩んできました。アゴラではこれまでも当事者による発信を通じて、マスコミとは異なる言論空間を作ってまいりましたが、松本麗華さんのブログ掲載を通じて、犯罪をめぐる社会的議論が多角的な視点で行われる一助になればと考えます。