靖国参拝の是非をめぐる議論を続けよう --- 川本 航平

2014年02月02日 16:11

靖国参拝を擁護する先日の投稿に対して、松本徹三氏から論評をいただいた。内容は非常に説得力があるもので、特に、中国の立場を具体的に検証した上での提言は、不勉強な私でも腑に落ちる感覚があった。ここで正式に「靖国参拝は悪手だった」ことを認めたいと思う。


とは言え、せっかく噛ませ犬として拾っていただいた身。何らかの爪痕は残したい。そこで一点、松本氏の記事の中にある「巧妙な嘘」を指摘することで、なんとか遠吠えを試みる。私が問題だと感じたのは次の一文だ。

「誇り」は自分たちの心の持ち方の問題であり、自分たちの選択が合理的なものだったという確信があれば、仮に一時的に膝を屈さざるを得ないようなことがあっても、いささかも傷つくものではない。

これは至極まっとうな意見ではあるが、しかし読み手を巧妙にミスリードする。あたかも日本国民が「自分たちの選択が合理的なものだったという確信」を持ち、それによって誇りを守ることが可能であるかのように感じさせるのだ。

現実には、そんなことは不可能だ。今の日本では「確信」はおろか、そもそも「合理的な判断」が為されていないことの方が多い。いつまでたっても原発が再稼動されないことの合理性を説明できる国民が、はたして何人いるだろうか。靖国参拝についても、大多数の国民の見方は「まぁ悪気はなかったみたいだから良いんじゃないの」という程度のものだろう。

この国を支配しているのは合理ではなく、国民一人ひとりの無関心だ。松本氏が誇りを守ることの前提としている「自分たちの選択が合理的なものだったという確信」を得ることなど、とうてい不可能なのである。

それでは、「無関心の壁」を乗り越えるために、何をすればいいのか? 私は、建設的な議論を積み重ねることしかあり得ないと考えている。

これは「国民全員が常に議論に参加するべきだ」という意味ではない。多くの国民にとって、自分の仕事以外の場面で議論に参加することはストレスでしかないはずだ。

しかし、どのような立場の人であっても、大小のニュースに触れる中で政治的な問題を考える機会はあるだろう。そのときに「自分なら、どう議論に参加するだろうか」と思わせるようなメディアがあれば良い。公平で活発な、知的エンターテイメントとして成立し得るような議論が、一部の人たちによって為されていれば良いのだ。それが国民一人ひとりを無関心から解き放ち、また一方で「結論を軽々しく決めつけるべきではない」という自制を促すことにも繋がる。

…さて。どうやら遠吠えには失敗したようだ。

上に書いたような主張は、実は既出のものである。松本氏は先日の記事で、「ど素人の考え程怖いものはない」という先の大戦の教訓を踏まえ「健全な言論活動」の必要性を訴えられている。前述の「巧妙な嘘」は、自らの言論によって責任を果たそうとする松本氏の使命感の表れだったのであろう。

ここで保守層、あるいは自称保守の皆様に一言申し上げたい。「道義的に正しい」という一点のみをもって靖国参拝を擁護するのは、逆効果だ。一面的な主張は国民の無関心を強化し、あなた方の理想の実現を困難にする。むしろ冷静な議論を呼びかける松本氏こそが、日本人が「誇り」を守るために一番必要なことをされているのではないか。

この記事を書くにあたって、今回はじめて松本氏のツイッターを拝見した。身勝手な主張を繰り返すフォロワーにも真摯な対応を繰り返す姿勢には、頭が下がる思いである。私などが言えた義理ではなかろうが、氏には引き続き、建設的な議論をリードしていただくことをお願い申し上げたい。

身勝手な願望を押し付けたからには、自分自身に対する戒めも記しておこう。私は、たとえ不勉強であっても、議論を進めるために率直な意見を述べることには意義があると考える(今回、結果として松本氏から論評をいただけたことは望外の喜びであった)。ただし、そのことは自分の意見が無条件に許容されることまでは意味しない。

思慮不足が明らかになった場合はいったん引っ込むべきであるし、噛ませ犬で終わりたくなければ、それなりの理論武装をするべきだ。今後も自分を卑下することなく、それでいて礼節を保った謙虚な姿勢で、議論に参加したいものである。

この先、もしも「靖国参拝でプラスに転じた」と言えることがあるとすれば、それは国民一人ひとりの意識の変化による議論の活発化しかないだろう。その意味で、最先端を走られているアゴラの皆様に敬意を表するとともに、今後もいちファンとして大いに楽しませていただくつもりである。

川本航平

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