ただ同然で買える稀覯本

2017年10月17日 11:30

文化勲章を受章している経済学者の根岸隆東京大学名誉教授の本に、『経済学のタイム・トンネル』(1984年 日本評論社)というのがある。そこに、川口弘の『ケインズ経済学研究』(1953年 中大出版社)が「古本屋のリストにでることも滅多になく、品がないから値段もつかないというたいへんな稀覯本」として紹介されている。

なんと、私は、この『ケインズ経済学研究』を所有している。稀覯書として高値で買ったのではなくて、ある古書店の雑書の山から、ただ同然で掬い上げたのである。根岸先生がいうとおり、「品がないから値段もつかない」のであって、値段がつくときは、稀覯書だからといって、高価とも限らないのである。

他方で、根岸先生は、「実は、私が購入した本はいつの間にかどこかへいってしまい」という事情があって、この本を探していらしたようだが、「大学の図書館にもなく」というほどの本でもあり、結局、古書店で入手されることはなかったようである。

市場原理というのは、買い手が高い価格を提示することで、商品が誘い出されてくることを前提にしている。根岸先生も、それなりの価格を払う用意があったはずだが、この本の場合には、市場に商品が存在せず、その潜在価格情報が機能しなかったのである。

しかし、現に私が古書店で入手したのだから、市場に商品がないとはいえない。事実は、根岸先生が紹介している著者の川口弘自身の言葉によれば、1500部印刷されたのであって、決して多くはないが、極端に希少な本でもないのである。

また、この本に対する潜在需要情報は機能しているのだ。それは、日本経済評論社が1999年に新版を出していることに現れている。ただし、この出版社は、「ポスト・ケインジアン叢書」などで知られた特異な専門書の出版社で、この叢書の翻訳者には川口弘自身が名を連ねている。この本の価値を一番よく知る出版社だからこその仕事なのである。

かつては、経済学などの社会科学系の学術専門書を扱う古書店がいくつもあった。そういう専門家の社会では、この本の価値は、当然だが、よく知られていたはずである。優秀な古書店主は、よく勉強もしていたのだ。故に、以前は、それなりの価格で、稀とはいいながら、それなりの数の取引があったのだろう。おそらくは、それなりに、市場原理は機能していたのである。

しかし、今では、そうした目利き力のある専門の古書店は激減してしまった。古書店の数自体は、それほど減ってはいないようだから、構造が変わってしまったのである。こうなれば、この本など、専門的知見を欠く多くの古書店主にとっては価値のないものだから、私は、ただ同然で、買えたのである。

価格情報だけでなくて、価値情報もないと、市場原理は機能しないということである。

 

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
HC公式ウェブサイト:fromHC
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facebook:森本紀行

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